自助グループのなりたちの基本的要素1:体験の共通性

 

これまで自助グループの働きの3つの基本的要素について述べてきたが、ここからは成り立ちの3つの基本的要素について書きたい[i]。自助グループとして十分な働きができるためには、これだけが必要という条件のようなものである。

 最初のなりたちの要素は、グループに集う人々の体験に共通性があることである。自死遺族の自助グループの場合、家族のなかに自死した人がいるというのが、共通する体験ということになるだろう。一見すると、ごく当たり前のことで議論の余地はないようなのだが、実はいろんな問題がある。

 まず、家族という範囲である。どこまでの関係性で遺族と言えるのだろうか。全国自死遺族連絡会が2012年に出した文集には[ii]49人の遺族が寄稿しているが、自死した家族との関係は3つだけである。すなわち親子、夫婦、兄弟姉妹である。この文集は2019年に寄稿者が若干、変更されて第2版が出されているが[iii]、やはり3つの関係に限られている。私は、2008年から全国自死遺族連絡会を通して自死遺族のかたと会ってきているが、ほとんどの遺族のかたがこの3つの関係性に含まれている。

 では、この3つの関係性に含まれない人を亡くした場合は、遺族とは言えないのだろうか。たとえば、親子関係を広げれば、祖父母[iv]、孫、義理の親子、養子、里子、夫婦関係を広げれば、離婚後や結婚前の自死、同性愛者のパートナーの自死が含まれるだろう。きょうだい関係で広げると、伯父(叔父)、伯母(叔母)、甥、姪、従兄弟(従姉妹)等となる。いまの日本の社会で「家族は何人いますか」と聞かれれば、たいていの人は、親子、夫婦、兄弟姉妹という上記の3つの関係性にある人数を答えるだろうが、祖父母も同居していれば、その人数も含むだろう。同性愛者で同居しているなら、そのパートナーを含むだろう。しかし、自助グループのなかでは誰からも「同じ体験をしてきた」と認めてもらえることが安心の条件になっていることもあって、それぞれのグループでは(会則等で明らかにされてはいないが)遺族と呼べる範囲を暗黙の了解で決めているようである。

 では、逆に、この3つの関係にある遺族であれば、互いに「共通の体験」をもち、共感しあえるかというと、必ずしもそういうわけではない。親を亡くす、子を亡くす、配偶者を亡くす、きょうだいを亡くすということは、体験としてもかなり違うとされており、わかちあいの場に集まった人が多ければ、遺族の立場によってグループを分けるという。また、ここは自死遺族に特有の問題なのかもしれないが、家族間に深い対立がある場合がある[v]。たとえば、息子を自死で亡くした人が、息子の嫁に対して、また母を自死で亡くした人が、自分の父に対して強い憎しみの気持ちを持つことがある[vi]。その場合、憎しみの対象と同じ立場にいる人の前で、自分の気持ちを正直に出せないかもしれない。つまり母を亡くした人が、母を支えなかった父への恨み言を、妻を亡くした人の前では出せないということだ。

 では、全く同じ関係性であれば、同じ体験をしていると言えるのだろうか。これも、また微妙なところがある。たとえば、子を亡くした親の場合、亡くなったのが、ひとり子のときの親と、他に子どもがいる親とでは、気持ちが違うかもしれない。また、亡くなった子どもが未成年で同居していた場合と、すでに成人で別居していた場合とでは、親の体験はおのずと違ってくるだろう。自死で二人の子を、あるいは、子どもと妻の両方を亡くした人は、自分の体験が他の遺族に理解できると思うだろうか。

 実は、このようなことは、どんな自助グループでも起きている。たとえば、ひとつの病気の患者会でも、治療がうまくいっている人と、いかない人では、闘病体験も全く違う。経済的に裕福な人と、そうではない人とでは、生活の違いが大きく、当然ながら患者の日常も違ってくる。つまり「同じ体験」をした人が集まるのが自助グループだといっても、人間は、ひとりとして同じ人間はいないし、それぞれ異なる環境にあるので、結局のところ誰かと「同じ体験」をすることは原理的にありえない。

 それでも自助グループが成立するのは、当事者が「体験者ではないと絶対にわからない」と信じる体験があるからだ。その信じがたいほど強い衝撃の前では、個別の体験の差異も小さなものになる。太陽の強い光のもとでは、色彩のわずかな違いは消えてしまうようなものだろうか。

 先に述べたように、わかちあいに集まった人々の「体験の共通性」を細かく凝視すれば、いくらでも、些細な違いは現れる。しかし「体験の共通性」を自助グループの成り立ちの基本的要素とする意義は、実は、そこにはない。

 世の中には、いろいろな集まりがある。その集まりに加わるためには、いろんな条件が課せられることが多い。その条件としては、所得や年齢、性別、学歴、職業、資格、能力、外見など、さまざまあるだろう。しかし、自助グループには、その「体験」をもつこという唯一の条件で十分である。自死遺族の自助グループの場合、自死遺族であれば、誰でもわかちあいに加わることができる。その他に何の条件も必要ない。

「自死遺族である」というただ、それだけの共通点しかない人が集まるのだから、それこそ他には何の共通点もない。これまで生きてきた人生も違う。生活の仕方も、環境も、価値観もまるで似ていない人々が集まってくる。だから、すでに集まってきた人の「違い」を数え上げても仕方がないのである。

そうではなく、そこに集まることができなかった人のことを、いつも考えておくこと。これが自助グループの成り立ちの基本的要素なのだ。「体験の共通性」とは、自死遺族としての同じ体験をもつ人は、いまの自助グループの外に無限にいること。その人々は、きっと自助グループにつながりたいと思っていること、あるいは、当面はつながりを求めていなくても、自分たちの代わりに社会に対して声を出してくれる存在として自助グループに期待しているということ。「まだ見ぬ仲間のために」とは、特に依存症者の自助グループでよく聞く言葉だが、すべての自助グループは「まだ見ぬ仲間のために」働いている。

自助グループと専門職主導のサポートグループを、どちらも遺族が集まり、体験談を話すのだから同じようなもので、ただ単に自助グループは、当事者が中心になっているだけだと考えている論文は、よくみかける。それは、グループのなかだけを見ているから、そう思ってしまうのである。そうではなく、前章でも指摘したが[vii]、自助グループには、内と外という境界線は存在しない。わかちあいの場を中心にして、ずっと同心円状に遠くまで広がっていく波のようなイメージだ。

わかちあいの日時と場所、連絡先の電話番号が掲載された小さな新聞記事の切り抜きを、ずっと財布のなかで何年ももっていたという人がいる。実際には、そこに足を運ばなくても、それが自分の「お守り」のようになっているという。このような形で「自助グループ」は生きている。「体験の共通性」がそれを可能にしている。これがあるから、自助グループには、社会を変えていく力があるのだ。

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[i]  私が「3」という数字にこだわるのは「3」が特別な数だと感じているからである。「1」だと単純すぎる。「2」であれば、対立が含まれてしまう。「4」はすでに素数ではなく「2 + 2」に分けられてしまう。「5」以上は多すぎる。「アリストテレスは数字の3を、『すべて』と『全体』を表現するものとして、自然であり、そしてそれゆえ普遍的であるとしていた」(Zhmud, 2019, p. 26)し、古代より「3」は「神聖にして完璧な数」と信じられてきた(Lease, 1919, p. 71)。そして現代においても「3」は特別視されている(Perry, 1972)。日本においても、(2014)は「『三』は日本語の数字文化の中で格別な存在である。. . . 天、地、人とありとあらゆるものを網羅するとともに、また、多くの物象、事象、心象に対して、日本人はすべて『三』をもって統合する」(p. 64)として、三大名園、三大名山等の例をあげている(p. 75)唐・鷲尾(2010)も「日本人は『三』という数字が好きである。神社で行われる挙式で、夫婦の契りを結び固める『三三九度の盃』を交す。三方に三つ重ねの杯がのっている。. . .  日本人は特に手をあげて『万歳』を三回繰り返して叫ぶことが好きである。日本人はどうして奇数の『三』にこのように熱中するかというと、その根源は『三』に対する理解にあって、先賢の『数』に対する認識にさかのぼるであろう」(p. 73)とし、先賢の例として、老子の第42章の一節「道は一を生ず。一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」を引用している。説明が長くなったが、「私のこの本じたいも『行為遂行的発話』」であるという私の立場はすでに述べた(「悲しみは愛しさ」は誰の言葉か」)。すなわち、自助グループが実態調査などを通して、いわば客観的に「3つの基本的要素」があったと言っているのではなく、自助グループとは何かを当事者である自死遺族に伝える対話の一環として伝えている(「対話という手法」)。対話であれば、伝わりやすいものが望ましく、それならば印象に残る「三」を(老子によれば、万物がそこから生じるという「三」を)使おうというわけだ。

[ii]  全国自死遺族連絡会(2012).

[iii]  全国自死遺族連絡会(2019).

[iv]  「自殺学入門」の著者である末木(2020)は、その著書のなかで以下のように書いている。「私自身が最初に自殺という現象にひっかかりを持ったのは、思春期真っ只中の頃でした。祖父が自殺で亡くなったからです。. . . なぜこのようなことが起こってしまったのか、. . . その血をひく自分も(父も)いつかは自殺をするのではないか」(p. 4)

[v]  川野・川島(2009)が「自助グループ・支援グループ」につながる111名の自死遺族にアンケート調査をした結果を報告しているが、それによると、遺族に「二次的な傷つき体験」をもっとも与えたのは「親戚」、そして次に「家族」であった。これは「自死遺族への差別について」で述べたような警察や行政職員から与えられた「傷つき体験」よりもずっと多い。ただし、同時に「支えになったと感じる経験」も「家族」から得ていることがもっとも多い。家族は、遺族にとって最も支えになるが、しかし同時に深く傷つける存在でもあることが示されている。

[vi]  これについては「悲しみばかりではない(上)」で述べた。

[vii]  自助グループのはたらきの基本的要素2:ひとりだち

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