「悲しみは愛しさ」は誰の言葉か

 

この本には「悲しみは愛しさ」というタイトルをつけた。遺族の自助グループが伝えようとしているメッセージを、一言で表せば、こうなると考えたからだ。私がこの言葉にどのように出会ったかは、別のところで書いている[i]。ここでは、それを自助グループのメッセージとして取り上げた理由について書いてみたい。

 まず「悲しみは愛しさ」というときの「悲しみ」は、遺族のさまざまな気持ちを代表している[ii]。怒りや悔しさ、寂しさ、虚しさ、驚き、場合によっては安堵感のようなもの[iii]など、ありとあらゆる感情が入り乱れてあり、それは遺族の以外の人には、どんなに説明してもとうていわからないものだろうから、いわば言葉の「節約」のために「悲しみ」と表現している。記号のようなものと言っていいだろうか。

 とすれば、「悲しみは愛しさ」というメッセージは、遺族の心は亡くなった人への「愛しさ」でいっぱいなのだということを伝えている。全国自死遺族連絡会が編んだ文集のタイトルも「会いたい」であり、これも同様に遺族の深い愛情が語られているのである。

 ある学会で、このメッセージについて語ったとき、日本のグリーフケアの第一人者とされている方から「愛があるから悲しいということは理解できる。でも、悲しさが愛であることは、ありえないでしょう」と強く批判された。いや、これは自助グループに集う遺族の言葉なのだから、遺族ではない人間が、正しいとか間違っているとか判断するべきものではないのですと答えておいた。

 人の言葉には、ただ単に事実を伝えるものと、本人の考え方や生き方、態度や決意を伝えるものとがある。言語哲学では、前者を「事実確認的発話」といい、後者を「行為遂行的発話」というそうだ[iv]。つまり、その言葉を発することは、発する本人のなんからの行為になっているという場合、「行為遂行的発話」という。たとえば「水は、水素と酸素から成り立っている」とは、単なる事実を伝える文(「事実確認的発話」)である。一方、水泳選手が「水は、私の友だちだ」と語るとき、それは、その選手の泳ぎについての考えを表明する行為になっている。だから、他の人が、その選手に向かって「水は、あなたの友だちだ」というのは、なんだかおかしい。場合によっては「あなたに何がわかるのか」と反論したくもなる。

「悲しみは愛しさ」という言葉も、自助グループに集う遺族の「行為遂行的発話」であり、遺族の態度の表現であり、遺族自身が発してこそ意味がある。いつだったか、支援者のなかにも同じように「悲しみは愛しさだ」と言い始めた人がいて、私の周囲の何人かの遺族たちは自分たちの言葉を盗まれたかのように不快に思っていた。しかし、遺族ではない人が、この言葉を使っても意味がないのである[v]。遺族によっては、支援者から「あなたの悲しみは愛しさだ」と言われたら憤慨するかもしれない。そんなことを他人から言われれば「悲しみを愛しさと理解しなさい」と押し付けられているように思うからだ。そういう意味で「悲しみは愛しさ」という言葉は、遺族の自助グループにこそふさわしい。

「悲しみが愛だなんて、ありえない」と否定していたグリーフケアの専門家は、そこを誤解していた。「悲しみは愛しさだ」とは、哲学とか心理学とかの議論から出た結論ではない。自助グループに集う遺族の依って立つ立場、スタンスを言っているのであり、遺族自身の口から出て初めて意味があるという言葉なのである。

では、この本の言葉全体は、どうだろうか。少なくとも自死遺族についての事実を並べたものにはなっていない。たとえば、すでに述べたように「悲しみは愛しさ」という言葉が自死遺族の態度を表すということが、この本の主題の一つであるとしても、いったい全国の自助グループや自死遺族の何パーセントがそれに同意しているのか。そういった事実についての記載は、この本にはない。その理由は簡単で、そのような調査を行ったことがないからである。なぜ、そんな調査を行わないのかというと、先に述べたように、遺族ではない私がこの言葉を使うことは、この言葉(「行為遂行的発話」)の使い方に反するからだ。「あなたにとって、水は友だちですか」と、水泳選手100人にアンケートをとっても意味がないことを考えれば、それは明らかだろう。

調査についていえば、私は、あらゆる思い込みを排除した中立的で客観的な調査など存在しないと考えている[vi]。たとえば、私の周囲の自死遺族は、長く続く悲しみを病的なものとみなすような「複雑性悲嘆」という概念に強い違和感をもっているが[vii]、「複雑性悲嘆」の意味とされる「本来時間の経過とともに進行する悲嘆(喪)のプロセスがなんらかの要因によって滞ってしまった状態」[viii]を調査しようとしたとたん、どんなに調査項目を吟味し、洗練された統計的な処理を行ったとしても、「本来時間の経過とともに進行する悲嘆(喪)のプロセス」という考え方そのものに、調査する側の主観が入っているので[ix]、中立的、客観的な結果にはならない。

結論をいえば、私のこの本じたいも「行為遂行的発話」なのだ。自助グループに集う、あるいは集いたいと願う自死遺族のかたがたに対して語る行為として、この本がある[x]。このあたりは複雑なので、次の章で別の角度から書いてみたい。

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[i] 悲しみは愛しさ

[ii] これについては「悲しみだけではない(上)」「悲しみだけではない(下)」で書いた。

[iii] 複数の遺族から私は、この安堵感についても聞いたことがある。この場合、亡くなった我が子は、何度も自死を試みており、そのたびに本人も家族も苦しく辛い、そして肉体的にも激しい苦痛を受けてきた。そして何度も試みたあと、ついに苦しい生を終えることができた。亡くなった直後の安らかな顔を見て、遺族はしばらく涙が出ることもなかったという。

[iv] 服部(2003), p. 143. 服部は言語哲学の一つの考え方として、この説を紹介しているが、実際にはこのように2つに分けることは不可能だということも知られているという。たとえば「私は水泳選手だ」という発話は、単なる事実を語っているともいえるが、重い病気にかかったときに記者会見で同じ言葉を言うのなら、それは水泳を続けていきたい決意表明とも考えられ、その意味では行為遂行的発話となる。

[v] 「障害は個性だ」という主張も同様だろう(茂木, 2003, pp. 12-13)。当事者である障害者や、その家族が言うのは「行為遂行的発話」なのだから問題はないが、そうではない人々も同じように言うことには疑問がある。私は、病気のために骨が折れやすくなっている子どもをもつ母親から、この言葉に憤激していると聞いたことがある。その子は、病気のため長期に入院しているが、その入院中に他の子どもから暴力を受け、なんども骨折していた。「障害は個性だ、なんて、のんきなことを言ってんじゃないよ。こっちは、そのために死ぬような思いをしているんだ」と言っていた。自死遺族の「悲しみは愛しさ」という言葉も同じである。愛する人を喪い、食事ものどを通らない。もう命もあぶないというときに、「悲しみは愛しさなんですよ」と他人事のように周囲の人が言うことは間違っている。繰り返して言えば、これは、当事者が発信して初めて意味をもつ言葉なのである。

[vi]  これは「価値中立的な言明など存在しない」(Gergen, =2004, p. 33)という社会構成主義の立場である。本書では、社会構成主義の入門書(Gergen, =2004)をたびたび引用している。

[vii] これについての違和感は「遺族が生き方を作りあげていく」で述べた。

[viii] 中島(2014, p. 58).

[ix] 「本来時間の経過とともに進行する悲嘆(喪)のプロセス」というが、「本来時間の経過とともに進行する」となぜ言い切れるのか。ある立場からは、それが言い切れるとしても、それを前提とした調査を遺族に行うことは、その立場からの遺族像が現れるにすぎない。精神医学の用語を多用し、統計学的な手法を使っても、その遺族像は偏ったものなのである。

[x] このようなことをくどくど書いたのは「自死遺族への差別について」書くうちに、私のなかで混乱が生じたからだった。遺族のかたに対して、そこにある差別を書いたところで、私自身は何を伝えたいのかを考えれば、何もないのである。ただ学術的な本としてまとめるためには、その項目も必要だろうと思ったのだが、それでは「行為遂行的発話」として書くことにならない。すなわち、私自身の遺族のかたに向かい合う態度としての言葉になっていないことに気づいたのである。

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