自死遺族への差別について

 

田中さんが自死遺族への差別について告発する文章を公刊されている[i]。そこでは、賃貸物件[ii]のこと、生命保険、住宅ローン、健康保険、自賠責保険、戒名、葬儀、警察[iii]という順で、「差別と偏見の嵐の中でさらに追い込まれて」[iv]いく遺族の様子が描かれている。この問題については「二次被害」[v]として論じた書籍も出されているし[vi]、そこに焦点を当てた、無料でダウンロードできる博士論文[vii]もある。遺族自身が書いた文章[viii]やジャーナリストの書いた記事[ix]もある。

 自死遺族に向けての本なら、この差別の問題は避けては通れないだろうと思い、これらの本や論文を参考にして、私は書き始めたのだが、あちこちの論文や書籍からの引用だらけになり、この問題が「多方面にわたっていることや個々人で違っていること」[x]もあり、まとまりがつかなくなってしまった。ダラダラ長いばかりで、何度書き直しても、駄文に終わってしまう。そのうち書く意欲が無くなってきた。

 どうしてこうなるのかと考えてみた。そもそも、この本は「自死遺族のかたがた、とくに自助グループに集う、あるいは集いたいと願う遺族のかたに向けて書くことにした。夜空に向かって、ひとりで話しているような本にしたい」[xi]という趣旨なのである。とすれば、自助グループに集いたいという遺族のかたに対して「世の中には、自死遺族に対して、こんなにも差別や偏見がある」と、ひとりでつぶやくような行為は、まるで、これから新しい一歩を踏み出そうとする人を恐怖で怯(ひる)ませる「呪い」のようなものではないか。差別の事例ばかり並べたものを読むことが、遺族のかたの力になるだろうか。あたかも一般社会はもとより、行政も、警察も、教育や医療の現場も、神社、仏閣にいたるまで自死遺族への敵意に満ちているかのような、そんな極端な光景を描くことにならないだろうか。

 たとえて言えば、ヨーロッパにこれから留学に行きたいと思っている日本の若者に「日本人、アジア人は、ヨーロッパでは差別されるよ」と何度も繰り返し、具体的に差別の実例を読みあげるようなものではないか。もちろん差別はあるだろう。どこの社会でも差別は、ゼロではない。しかし、一方では、どの国、どの社会にも差別しない人がいる。ヨーロッパに留学した日本人が、みんな、地元の人々からずっと差別され続けて苦しむという話は聞いたことがない。

 十人のうち一人が、ひどい偏見をもっていたとする。いや、百人に一人の割合でも同じかもしれない。その一人から偏見に基づいた差別をされたら、他の人もきっとそうに違いない、それを言葉に出して言わないだけだと考えてしまうと、十人中十人が、百人中百人が、差別をする人に見えてしまう。遺族ではない私が、遺族への差別を数え上げることによって、その感覚の歪みを大きくしてしまうのではないかと心配なのである。

 自死遺族への差別について書かれた文章は、遺族以外の人たち、特に自覚のないまま遺族を苦しめている人々が、それを読み、自分の言動を改めることを期待しているのだろう。だとすれば、遺族自身が、それを読む意味はどこにあるのだろう。遺族が書いた被差別体験なら遺族が読んでも共感できて、「わかちあい」に似て読む価値はあるにちがいない。また社会を変える市民運動の一環として、遺族の共通認識を形成するという意味もあるかもしれない。しかし、遺族以外の人間、たとえば、当事者ではない私が、いろんな書籍や論文を読みつつ差別や偏見について書いたとして、それを遺族が読む意味はあるだろうか。たぶん、無いと思う。

 田中さんが、以前、遺族向けの研修会に参加したら「遺族の悲しみ」についての講義を受けることになったと憤慨されていた。「遺族ではない人から、遺族の悲しみについて講義をされても意味がない。遺族は自分の体験から悲しみについて知っているのだから」ということだったと思う。差別についても同じではないか。自死遺族としての差別を受けたことがない私が、遺族に対して差別について語るというのは、どこか違うと思う。

 もうひとつ、私が差別について語るときの難しさは「差別」への強い違和感である。思い出すのは、私が田中さんと出会ったときより、かなり以前、つまり自死遺族の自助グループの存在も全く知らなかったころ、私の研究室に出入りする印刷業者の女性が、突然、私に自死で亡くした息子さんのことを話したことだ。息子さんは、仕事がうまく行かず、借金をかかえることになった。その相談を受けた母は、その金額がそれほど大きくないこともあり、励ますつもりで弱音を吐く息子を叱ったそうだ。すると、息子は、そのまま母への感謝の手紙を残して若い命を絶ってしまう。母ひとり子ひとりの家庭で、必死に働いて大切に育てた子だった。「私があの子を殺したんです」と、彼女は私の前で泣いていた。では、その話を聞いたあと、私はその人に対して何らかの「差別感情」とか「偏見」とか持っただろうかと振り返ってみるが、それは、どう考えても無かったと思う。私が特別に、自死遺族に対して「偏見」を持たない「公正な人」だったというのではなく、こういう状況で、この人を差別したり、この人に偏見をもったりする人は皆無ではないとしても多くはないと思うのである。

 繰り返して書けば、自死遺族自身が指摘するように、遺族を差別したり、偏見を持っていたりする人は、確かにいる。しかし、この世の中すべての人がそうだとは思わない。遺族が「差別と偏見がある」と主張することは、遺族以外の人たちに自己の言動や(上記に言及した賃貸物件などの)慣例や制度をチェックする機会を与えるだろう。しかし、遺族自身にそれを改めて伝えることには、まして遺族以外の人間がそうすることには、どれほどの意味があるだろうか。遺族のなかには、そういった被差別体験を持たない人もいるだろう[xii]。その人たちにまで「あなたがたは差別されている」と伝えることは、遺族として、より積極的に社会参加をしようとするときの妨げになってしまわないだろうか。遺族の立場からみれば、「差別と偏見」のように、どこまでも広がる、つかみどころのない一般的な「風潮」としてではなく、賃貸物件の問題、自死への警察の対応[xiii]など具体的に限定した個々の制度的な、あるいは慣習上の問題点として理解したほうが、社会的な取り組みとしても対処しやすいのではないだろうか。

 私は、先に述べたように、自助グループに集う、あるいは集いたいと願う自死遺族のかたがたに向けて、これを書いている。とすれば、こんな差別がある、あんな差別があると、ただ単に並べたてるのではなく、自助グループに加わることへの遺族のためらいや抵抗のなかに「自分自身への差別」のようなものがないかと問うこともできるだろう。

 長年、部落の研究を通して差別の問題に取り組んできた灘本(1999)は、以下のように述べている。

部落史の研究を始めた1970年代のころ、部落史とは、すなわち被差別の事例の発掘だったように思う。部落は、こんな差別をされてきた、あんな差別をされてきたと証拠を探し、だから国や社会は、部落差別解消に責任がある、同和事業を推進すべきである、といって同和事業推進を援助してきたのだ。ところが、部落のマイナスばかりを探して、いかに差別されてきたかをいいつのっていると、今度はそうした文章や資料を読んだ人が部落に対するマイナスイメージを強め、また部落民自身の劣等意識をも強化することになる。(pp. 202-203)

つまり自死遺族の苦悩を不必要にいっそう深くするような制度や慣習を具体的にあぶり出し、その撤廃、改善、改正に取り組むことは何よりも必要なことだが、ただ遺族への差別と偏見の存在、風潮あるいは漠然とした「社会的な雰囲気」を強調して、その差別事例を列挙し、道徳的に非難するだけでは、かえって自死遺族への社会の「敵意」を巨大な幻影のように描いてしまい、自死遺族として社会に知られることを遺族は、よりいっそう怖れ、自助グループに加わりたくてもその勇気が出てこないという事態につながってしまうのではないだろうかと懸念するのである。

 この章の結論として、そして次に続く課題として、再び灘本(1999)を、少し長くなるが引用したい。

「被差別者の痛み」をなりたたせているもっとも本質的な要素は、被差別者自身のコンプレックス、劣等感である。. . .  差別問題について考えている人のなかでも意外に理解されていないのが、被差別者自身が自分の劣等性を内面化している、ということである。つまり被差別者は、無意識のうちに自らを劣っていると思っているのだ。被差別者はみんな差別に対して怒っているではないか、内面化しているなら怒りがわくのはおかしい、という反論が予想されるが、差別されて怒ることと、自分の劣等性を内面化していることは矛盾しない。それを理解しないと差別問題を理解することはむずかしい。(pp. 192-193)

だから、被差別者の内なる差別意識の存在を認め、それを克服する道を探ってみようと思うのだ。被差別者が、差別する側の価値観を内面化しているという指摘は、この種の問題に慣れていない人には驚くべきことかもしれない。しかし、この問題は、被差別者が差別と正面からむきあおうとすれば、避けてとおれないものである。(p. 196, 下線は岡による)

「内なる差別意識」。自助グループの研究者である私から見れば、自死遺族の自助グループの活動を大きく妨げている要因の一つが、これだと思う。これについて章を改めて論じたい。

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[i] 田中(2015).

[ii] 全国自死遺族連絡会・自死遺族等の権利保護研究会(2018)「自死遺族が直面する法律問題」は、全国自死遺族連絡会のホームページからダウンロードできる。そこには賃貸不動産の問題だけではなく、いじめや労働、医療に関連した問題の法的対処が詳しく説明されている。

[iii] 田中(2015).

[iv] 田中(2015), p. 17.

[v] 「二次被害」とは、犯罪被害者についての学問である「被害者学」の用語である(大岡ら, 2007。自死を犯罪とみなさない立場からは「二次被害」の用語の使用は難しいかもしれない。

[vi] 清水編(2009)には、自死遺族の「二次被害問題」として5つの論文が集められている。

[vii] 岡本(2018)。この研究をもとにした岡本(2017, 2019)参考になる。

[viii] 田中(2009)山口(2019)

[ix] (2010)

[x] 岡本(2018), p. 9.

[xi] 「はじめに」

[xii] 岡本(2018)は「二次被害」について自死遺族への聞き取り調査をしているが、その研究の趣旨に賛同し、調査に協力することを約束していたものの「後日聞き取り調査を辞退したいとの連絡」(p. 12)をしてきた遺族がいることを報告している。その「理由としては、自分は二次被害に遭っているとは思えないからというものであった」(p. 12)

[xiii] 自死遺族への警察の対応の問題点については、大倉(2012, 2019)が詳しく報告している。なお大倉(2019)は、博士論文をもとにした400ページ以上の単著であり、そのタイトルは「自殺で遺された家族が求める支援 : 偏見による苦しみへの対応」であった。多くの遺族のインタビューを丹念に分析した労作であり、「偏見による苦しみ」についての詳しい記述を期待できた。しかしながら(2021)が、その書評のなかで指摘しているように、その内容は「本書のサブタイトルである“偏見による苦しみへの対応”との関連性が分かりにくい」ものであり、「序章では偏見について言及されているものの、そのほかの章においてはほとんど取り上げられていなかった」。これは自死遺族への偏見の問題が、非常に複雑で論じにくいものだという傍証になっていると思う。

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