自助グループのはたらきの基本的要素2:ひとりだち

 

自助グループのもう一つの特徴は、そのグループの働きは、各自の「ひとりだち」につながっているということである[i]。自助「グループ」といえども、「グループ」が本人に代わって何かをしてくれるわけではない。主体は、あくまで「ひとりひとり」の個人である。

前の章[ii]で「社会的に不利な立場に置かれた人々が団結して自分たちの状況を良くしていこうという動きは、人類の歴史を考えれば、大昔からあった」と述べた。共同体の形成である。共同体のような団結の強い集団に入れば、しっかりと守ってくれるし、それこそ何も考えなくても集団のリーダーが導いてくれる。

ところが、自助グループは、そのような共同体とは全く違う。ひとつに強くまとまった共同体は、いちど入ると、出ることが難しい。極端な例は「カルト」と呼ばれる集団で、そこから出るには「脱会」という困難なプロセスを経なければならない[iii]

私は自助グループの研究を40年ちかく行っているが、自助グループのメンバーからは「脱会」という言葉を聞いたことがない。自助グループに一度かかわっても、そこから離れることには、なんの困難もないからである。それくらい緩(ゆる)い。緩いどころかグループのメンバーか、メンバーではないのかという境界線すらはっきりしないことが多い。たとえば「メンバーでなければ、集まりに参加できない」という自助グループは、ほとんどない。当事者であれば、メンバーではなくても誰でもいつでも受け入れるというのが、たいていの自助グループの方針である[iv]。自死遺族の自助グループの場合、会員制(つまり会員名簿があって、会費を徴収する[v])をとっていないところがほとんどだから、メンバーかメンバーではないのかという境界線すら存在しないことになる。

緩い集団というと、これから集団に入ろうとする個人には楽なように聞こえるかもしれない。しかし、先にも述べたように自助グループの働きは「ひとりだち」につながるもので、それを目指すものでもある。これは「自助グループに入れば、誰かがなんとかしてくれる」というものではないということだ。「おまかせください」というフレーズは、なにかのサービスの広告にありがちであるが、自助グループには、こんな言葉はない。

自助グループは、渡り鳥の群れに例えられる[vi]。鳥は、群れを組んでいるが、一羽一羽は自分の力で飛んでいる。コウノトリが赤ん坊を運ぶように、誰かが、すやすやと眠っている人を持ち上げて、遠くまで飛んで行ってくれるわけではない。

では、なぜ渡り鳥は、わざわざ群れをなして飛ぶのかというと、鳥はV字の形で並びながら飛ぶと、気流の関係で安定して飛べるのだという。もちろん、これは比喩にすぎないが、自助グループでも、参加している人、ひとりひとりがしっかりと地に足をつけて生きていく。グループを通じて、その生きる姿に接することによって、他の人も励まされ生きる力を得ていくのだ。

たとえば、自死遺族でいえば、愛する子どもが自死をしてしまった。それで、もう辛くて生きていけないと思う。周りの人に励まされても「あなたに何がわかるのか」と腹がたつ。精神科医や心理カウンセラーの治療を受けたとしても、亡くなった人が生き返るわけでもないし、すべてが無駄のように思えてしまう。

しかし、自助グループに行けばどうだろう。そこには自分と全く同じように子どもを自死で亡くした人がいる。その人たちが優しい笑顔で迎えてくれたら「いったい、この人は本当に私と同じように子どもを自死で亡くした人なのだろうか」と驚き、怪しむことさえあるかもしれない。それでも「わかちあい」になれば、その微笑みの奥には、いまも溢(あふ)れるばかりの涙があり、それが十年も、いやそれどころかもっと長い年月を経ても止まることがないのだと教えられる。それほどまでに深い悲しみに改めて気づき、それでも心労に倒れることなく日々をおくる様子に自分自身の明日を重ね合わせ、安堵感すら覚えるかもしれない。

自助グループで「助けを得る」とは、そういうことなのだ。名医が診断し、手術をして治すように、自助グループの誰かれが新しく来た人を「治す」わけではない。また薬局で現金を払い、その対価として薬を得るように、会費と引き換えに何らかの助けを得るものでもない。私たちは、そういう仕方で治されたり、楽になったりすることに慣れてしまっている。だからこそ全く新しい仕方で自助グループで助けられることを学ぶ必要がある。

私は、以前、この自助グループの「ひとりだち」について、互いに学び合うことと重ね合わせて以下のように書いたことがある。(ここでは、自助グループのことを「本人の会」と呼んでいた。)

「本人の会」のあり方は、体育館にたとえるといいでしょう。体育館で、人びとは跳び箱を練習します。ほかの人の跳ぶ様子をみて、アドバイスを受けながら跳ぼうとします。跳び箱は自分で挑ぶしかありません。誰かに手伝ってもらうわけにはいきません。その意味で孤独な闘いです。しかし、みんなの応援があります。うまく跳ぶ人の姿がそばにあり、「自分にも跳べるはずだ」という気持ちを起こさせます。. . . みんな自分のベースにあわせて自由に跳んでいる。一見、バラバラなようだけど、それぞれが温かい目でみつめあっている。そんな自由で信頼に満ちた様子が「本人の会」にはふさわしいでしょう。同じ体操でも、組体操は一人が抜けるとバラバラと崩れてしまいます。助け合いや団結を強調する他の「会」は、そんな組体操と似ています。「本人の会」のイメージは、このような組体操ではなく体育館に近いのです。[vii]

自助グループに参加するアルコール依存症の人から「ひとりだち」について興味深い話を聞いたことがある。それは、酒を止めるために他の依存症者の体験談を聴くということなら、クリニックのデイケアでも十分だというのである。「でも、そこでは、お客さんでしょ。お茶も出してくれて、昼になれば、弁当も出る。上げ膳据え膳(あげぜんすえぜん)ですよ。でも、こっち(自助グループ)に来れば、逆に、お茶を出さなければいけない。会場の準備もしなければいけない。たいへんですよね。でも、そうやってこそ社会のなかで『ひとりだち』できるんです。」

自助グループでは、当事者を「オトナとして見る」という言い方をする。グループでの話し合いでも専門家が主導しているところは、新しくきた人は事前に面接し、グループに入って話し合えるかどうか、専門家が判断するそうだ。自助グループでは、誰でもない、自分自身が判断する。自分の責任において加わる。ある自死遺族の自助グループで「(「わかちあい」の部屋の)ドアの近くで迷っている人がいても、強く誘ったりはしない」と聞いたことがある。つまり、グループに入るときも、「わかちあい」においても、最初の時点から「ひとりだち」は求められているのである。

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[i] 「自立」あるいは「自律」と言ってもいいかもしれないが、ここは「グルプのはたらきの基本的要素1:わかちあい」の注iで述べたように「やまとことば」を使うことにこだわった。特にジリツと言った場合、「自立」なのか、「自律」なのかわからない。学問の言葉として「耳できいてわかるようにする」(日下, 1948, p. 37)ことが大切だと考え、「ひとりだち」を使っている。

[ii]  自助グループのはたらきの基本的要素1かちあい

[iii]  西田(2004).

[iv]  とても理想的な集団のように思えるかもしれないが、組織としてはこれは大きな限界になる。これについては「自助グループ『ただ乗り論』」で述べる。

[v]  名前だけの会員制(会費をとらない会員制)をとっている自助グループもある。昔の自助グループは機関紙などの郵送費が必須で、それが主な目的で会費を徴収していた。しかし、現在はインターネットでの広報が可能になり、郵送費は不要になり、したがって会費も不要としているようだ。しかし、それでも会員制を維持しているのは、ひとつには行政機関やマスコミ等に対して当事者の代表者としての発言権を保つためだろう。100名の会員がいる会と、10名しか会員がいない会では社会的な影響力が違うと、外部の目からは判断されるわけだ。

[vi]  これについては「渡り鳥のように:自助グループ自律分散」で詳しく述べる。

[vii]  (1999), pp. 38-39.

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