悲しみばかりではない(下)

 

自死遺族の気持ちを遺族自身が書いたものは少なくない。全国自死遺族連絡会の文集「会いたい」は、その良い例だ。他にも遺族が講演の形で話したことが雑誌に載ることもある。しかし、当然のことだが、そこに書かれたことが全てではない。書かれないこと、語られないことが山のようにあるはずだ。

 自死への偏見や差別があるから語りにくいということもあるだろう。しかし、おそらく、それが全てではない。たとえ世の中から自死への偏見や差別が一切無くなっても、語りにくいことはまだまだあるはずだ[i]。「遺族ではないから、語りにくいという気持ちがわからない」という人がいたら、自分自身どれだけ自分のことを他人に語ってきたか胸に手をあてて考えてみるといい。きっと驚くほど、あるはずだ。あるはずなのに、それに気づかなかったのは、あるいは、それを意識しなかったのは、単にそれが心に痛みを与えてこなかったからだろう。

 私がここで言いたいのは、遺族の思いは悲しみだけではないということである。本当は、自死した人を追い詰めたと思われる人々への復讐心も含めてドロドロしたものがいっぱいあるはずで、それは生身の人間であれば、当然のことなのである。にもかかわらず、あたかも悲しみだけが、遺族の気持ちであるかのように語られてしまうのは、おそらく悲しみが、もっとも周囲の人から受け入れられやすいからだろう。

 日本思想史を専門とする竹内整一は、悲しみは、日本の思想のなかで「みずからの有限さ・無力さを深く感じとる感情(だ)が、しかし、そうしたことを感じとることにおいて、そこに、ある種の倫理性、あるいは無限(超越)性を獲得できる感情としても働いてい」[ii]るという。ひとことでいえば、私たちは悲しみに「美しさ」を感じる文化に生きている。チャイコフスキーの交響曲第6番の別名は『悲愴』であるが、悲しみとは、あのような美しさだろうか。だからこそ、この悲しみばかりが取り上げられ、遺族の他の感情は悲しみの前に消えてしまっているかのように描かれている。

 人は、悲しみに、特に他人の悲しみには「美しさ」「崇高さ」を感じ、それに触れたとき満足感さえ感じる。それは誰も認めたくないこと、特に悲嘆に苦しむ人を支援したいという人には認めがたいことだが、たとえば、そのような人間の性格は、よく知られた芥川竜之介の「手巾(ハンケチ)」という短編小説に精緻に表現されている。

 大学の教員である主人公(先生)のところに、見知らぬ婦人が訪ねてくる。聞けば、主人公の教えを受けていた青年の母親だということだった。彼女は、息子が病死したことを告げ、生前に息子が世話になったので礼に来たという。主人公は、自分の息子を亡くしたばかりの彼女が、あまりに冷静なので不可解だった。話を聞きながら、主人公は持っていた扇子を落としてしまったので、それを拾おうとする。

その時、先生の眼には、偶然、婦人の膝が見えた。膝の上には、手巾(はんけち)を持った手が、のっている。. . .  同時に、先生は、婦人の手が、はげしく、ふるえているのに気がついた。ふるえながら、それが感情の激動を強(し)いて抑えようとするせいか、膝の上の手巾を、両手で裂(さ)かないばかりに緊(かた)く、握っているのに気がついた。そうして、最後に皺(しわ)ちゃになった絹の手巾が、しなやかな指の間で、さながら徴風にでもふかれているように、繍(ぬいとり)のある縁(ふち)を動かしているのに気がついた。―― 婦人は、顔でこそ笑っていたが、実はさっきから、全身で泣いていたのである。. . .  団扇を拾って、顔をあげた時に、先生の顔には、今までにない表情があった。見てはならないものを見たと云う敬虔な心もちと、そう云う心もちの意識から来るある満足とが、多少の芝居気で、誇張されたような、甚だ、複雑な表情である。[iii]

先生にとっては、あまり近しい教え子ではなかったためか、先生が、若い青年の死を悲しみ嘆いたという様子は、そのあとも書かれていない。ただ、このように悲しみに耐えている婦人の姿を「日本の女の武士道だと賞讃し」[iv]、このことを材料にして日本の道徳を論じる文章を書こうと考えていた。

もしも、この婦人が、息子の病気を治療できなかった医者を呪う言葉を吐き、憎悪に満ちた目をしていたら、先生はもちろん「敬虔な心もち」にはならなかっただろう。悲しみと、それに耐える人を尊いとする日本の文化をよく表現している小説なのである。

グリーフとか悲嘆とか書かれてある本の表紙のデザインを思い出してほしい。たいていは静謐(せいひつ)な色合いで、落ち着いた寒色か、やや温かい暖色で図柄もシンプルであるはずだ。混乱や攻撃、破壊や暴力を思わせるものはほとんどない。グリーフ(悲嘆)とは何かが支援者によって述べられるとき、「怒りに伴う他者への攻撃」[v]も確かに含まれているのだが、それは、ほとんど無視してよいほどに小声で語られるのみである。

 本の表紙のデザインについては「当たり前ではないか。遺族は、そういった本に癒やしを求めているのだから」と思うかもしれない。しかし、もしも私が、いじめ自死や過労自死で子どもを亡くした親なら、復讐心に燃え、マグマのように地の底からあふれる殺意を抑えるのも必死なのだから、このような上品で静かな色合いには大きな距離を感じるかもしれない。

 カウンセリングの手法を用いて、遺族の気持ちを、いわば濾過(ろか)して、泥水だったものを透明な清らかな水として取り出すように美しい感情としての「悲しみ」のみを聴きだしても、はたしてどこまで遺族の気持ちに近づけるだろうか。「悲しみ」一色になっている遺族しかしらない、グリーフケアの支援者たちは、遺族がただただ「悲しむ」ことを期待する。誰かを憎んだり、怒ったり、笑ったり、あるいは、悲しみよりは、まずはお金のことを心配するような遺族は、彼らが想定している遺族ではない。だからこそ一部の遺族は、グリーフケアを提供するという支援者の会に行くと違和感を覚える。ある遺族は、その会に行ったときの体験を次のように語っている。

誰も笑わないんですよ。お通夜のようなんです。. . . お通夜のように迎えてくれるんですよ。静かな感じで、黒っぽい服なんか着てね。誰も話もされない。自分で悲しくない時もあるの。遺族でも涙がでない時もあるのよ。遺族でも、その日によって。そうすると、なんかここで泣かなきゃいけないんじゃないかなと思うの。無理に悲しい遺族を演じている自分がいたりしてね。[vi]

純粋で透明な、美しい「悲しみ」に沈んでいる遺族は、おそらく一部の支援者が作り上げた虚構の遺族である。実際の遺族は、生身の人間として、さまざまな感情に揺れ動きながら生きている。悲しみだけではなく、怒りも、生きて闘うための大事なエネルギーの源泉だ。怒りがなければ、いじめや過労自死をめぐる裁判は闘えないのだから。

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[i] 社会学者の有末(2013)は、自死遺族が、なぜ語りにくいのかを、自分自身が妻を自死で喪うという体験をもとに詳しい考察を行っている。

[ii] , 2007, p. 3.

[iii] 芥川龍, 2010,  p. 170. 下線部は岡による。

[iv] 芥川龍之介, 2010,  p. 171.

[v] 高橋, 2012a, pp. 11-12. 

[vi] 自死遺族ケア団体全, 2009, p. 69. なお、この発言はこの本で何度も紹介している田中幸子さんである。

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