悲しみは愛しさ

 

悲しみが悲嘆と言い換えられ、それが「反応」や「症状」と見なされてしまう危険性について前章で述べた[i]。悲しみは、人間にとって意味が深く、大切なものなのである。決して「反応」や「症状」として処理されるべきものではない。

 それに初めて気づかされたのは、自死遺族である田中さんの「悲しみは私の身体の一部なんです」という言葉を聞いたときだ[ii]。一時的に現れては消える「反応」や「症状」ではなくて、田中さんの存在の芯(しん)にあるのが、田中さんの悲しみなのだ。そんな悲しみが、グリーフケアの専門家と称する赤の他人によって、無遠慮にいじられ、批評され、「どういう段階にあるか」などと評価されてしまうことに、田中さんは憤っているようだ。

 そんな田中さんの悲しみは、喪った息子さんへの愛である以外に何だというのだろう。そこに思い及んだとき、私の心には、すでに「愛」という字を含む古語が浮かんでいた。「愛しい」と書いて「かなしい」と読む。遠い昔、高校生のころだったか、そんなことを学んだことがあった。さっそく手元の古語辞典で調べると、こんな記述があった。「かなし」とは、

現代ではほとんど「悲しい」の意味で用いられるが、上代においては愛惜にも悲哀にも使われて、平安時代に及んでいる。「愛し(=いとおしい)」から「悲し」という変遷をたどるのではなく、「愛情」と「悲しみ」の心は根っこのところではつながっている。[iii]

愛と悲しみが「根っこのところでつながっている」とは、なんとストレートで素敵な表現だろう。悲しみを動悸や食欲不振などの「症状」で説明してしまうのとでは、天と地の差がある。何よりも「愛と悲しみがつながっている」というメッセージは、悲しみを持ち続ける遺族にとって、とても心強いものではないだろうか。悲しみが胸いっぱいのとき、「それは病気だ。そこから回復するべきだ」と言われるのなら、悲しみは忌まわしいものになる。悲しみにとらわれている自分を叱りつけ、責めたくもなるだろう。しかし、胸を締め付ける悲しみが亡き人への愛しさなら、話は違う。辛いだろうが、それは耐えるに値する辛さだ。なぜなら愛しさは価値あるものであり、遙かな道のりではあるが、生きる力にも通じるからだ。

 それにしても、なぜ愛と悲しみがつながっているのか。古代において、なぜ一つの言葉として成り立っていたのか。それがわからなかった。それを知ったのは、竹内整一の「かなしみの『哲学』」という本を読んでからだ。それによると古代の「かなしみ」は「人間の、思いのかなわなさ、あるいは届かなさ」と結びついていた[iv]。その「かなしみ」の性格を理解すれば、平安時代に書かれた「伊勢物語」の、一人っ子の我が子を「かなしく」したという親の思いも見えてくる。

一人っ子であったからたいへん「かなしく」した、と。何をしても足りないほどかわいがる、ものすごくいとしい、という意味である。「ああ、この子はもう十分かわいがった」というのは「かなしく」はないのである。そうでなく、どんなにかわいがってもかわいがり切れないほどにかわいい、ということが、「かなし」ということである。ここにも基本的に、ある届かなさがある。届かないほどの切ない「いとしさ」が「かなし」なのである。[v] 

つまり、愛しても愛しても十分とは思えないほど、愛している。十分に愛したいのに愛があまりに強いために、それが不可能なのだ。だから悲しい。それほど深い愛情なのである。

他にも、かなしみが、なぜ「愛(いと)しさ」なのかを、その語源を通して説明した文があった。「『かなし』という語の語源は、『かぬ(兼ぬ)』という動詞に求めることができそうである」としたうえで、「かぬ」とは「ある一点を基準にして、それから他の点にわたって、これを併せることを意味する語」だったという。[vi]

「かなし」というのは、現在、自分とは別の存在としてある対象(たとえば子や恋人)に対して、これを「兼ね」てしまいたい、自分に併せてしまいたい、と感じるほどの気持をいだくことである。それがまず、切実な愛情の持ち方としての「愛し」の意味であった。と同時に、そのように感じるということは、志向する対象を、現実には「兼ね」えていないことによる不充足ないしは空虚の感をいだいていることである。そういう、心の隙聞を風が吹き抜けるような孤独で空しい想いが、すなわち「悲し」の意味するところであった、と考えられる。[vii]

 自分の存在と重ねてしまいたいと思うほど愛しい人がいても、現実には重ねることができないという悲しさがあり、そこに愛(いと)しさと悲しさが一つになる。亡き人に「会いたい」[viii]と切に願う遺族の思いにおいて、悲しさは、まさに愛しさそのものだろう。

1948

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[i] 悲嘆は悲しみではない」

[ii] 「悲しみからの回復はありえない」

[iii] 鈴木他(1995), p. 320

[iv] 竹内(2009), p. 57

[v] 竹内(2009), p. 58

[vi] 阪倉 (2011), p. 158

[vii] 阪倉 (2011), p. 160

[viii] 全国自死遺族連絡会 (2012)から「会いたい」というタイトルの遺族の文集が出されている。

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