支援グループ

 

自死遺族の支援者の間では、自助グループと支援グループ[1]についての認識の混同がみられる。もっとはっきり言えば、支援グループと呼ぶべきものを、自助グループと呼ぶことがみられるのである。

 実際、支援グループのなかには、自助グループととても似た形で運営されているものもある。たとえば、わかちあいの場面に遺族ではない当事者は出席していない、というのが代表的な例だろう。会の進め方については、遺族の意向を最大限に尊重するという方針が明確に出されている場合もある。こういう場合には「支援グループも自助グループも紙一重ではないか」との誤解も生まれやすい。しかし、外見は似ていても本質が違う。たとえば、人間とそっくりな人形があったりするが、人間と人形とは全くの別物だ。それと同様に、支援グループと自助グループは、場合によってはホームページだけからでは区別がつかないことがあるかもしれないが、本質は根本的に異なるのである。

 この本では随所に、支援グループにはない自助グループの特長を書いてきたが[2]、それだけでは、自助グループからの視点からしか支援グループを見ていないことになり、支援グループの性格も明確にはならないだろう。そこで以下、支援グループの特質について、ここで整理して述べたい。

 まず、言葉に注目して述べると、自助グループは「自分(たち)が助ける」のだから、助けるのも自分、助けられるのも自分なのである。グループのリーダー、あるいは世話役を長年行っている人でも、自助グループのなかではメンバーに「助けられている」と感じている。あるいは自助グループの活動をすることが、自分自身の助けになっていると考えている。活動それじたいが、自分自身にとって役にたっているから、グループ活動にかなりの時間を費やしていても、そのグループ活動から経済的な報酬を受けようとは誰も考えていない[3]

 一方、支援グループは、支援する者が、支援することを目的とし、支援のための手段としてグループを設ける。支援する者とは、自死遺族の場合は、県や政令都市の精神福祉センター、ボランティアが運営している非営利団体(NPO)が代表的だろう。支援する人は、支援する一方であり、グループの参加者から助けられることはない。(慣習として支援者も参加者から「助けられている」と言うことはあるだろうが、これは店の販売店員が客に「助けられている」と言うのと同じくらいの意味であり、ほとんど言葉だけにすぎない。客は店員を「助ける」ために店に来るのではないように、参加者は支援者を「助ける」ためにグループに参加するのではない。)

 自死遺族の支援をめぐる状況の特異性かもしれないが[4]、遺族自身が支援グループを運営することも少数ながらある。つまり、そのグループのなかでは、特定の自死遺族は支援者として活動していて、他の自死遺族とは違う立場になっている。いわば家族を自死で亡くした支援者なのである。遺族であること以上に支援者としての自覚が強くなるので、その結果、遺族ではないボランティアの人々と似た感じになる。遺族ではない専門家(たとえば、心理学者など)の指導を受けながら支援を行う例もある。

 私は、ここで自助グループと支援グループの優劣を論じたいわけではない。二つは別物であるから、どちらが良い、悪いというものではない。どちらが多くの自死遺族の助けになるかという問いも適切ではないだろう。「同じ立場にある遺族」に出会いたいと思う人は自助グループを求め、そうではなく「支援」を求める人は支援グループに向かうだろう。自助グループと支援グループとでは、提供するものが異なるのである。

 しかし、この本は自助グループに集う自死遺族に向けて書いているのだから、自助グループの良さを改めて考えるためにも、支援グループの限界を三つばかり述べたい。

 まず、支援グループでは「支援する者」と「支援される者」が分かれている。分かれているので、支援グループ自身はコミュニティにはならない。平たくいえば「仲間で集まっている」という感じにはならない。一体感がないのである。集まっても「迎える側」と「迎えられる側」に分かれる。

 この「コミュニティではない」ということが、支援グループの限界の一つである。つまり集まっても、その場かぎりの関係なのである[5]。グループを前に動かしているのは、少数の支援者だけだから、長い列車を一台の機関車が引っ張っているようなものだ。したがってグループ全体のエネルギーは、それほどあるわけではない。(それに対して自助グループは、いわば全員が「支援者」なのであり、すべての車両が自力で動く新幹線のように馬力がある。)

 支援グループの第二の限界は、それには社会を変えていく力が無い、あるいは、あってもとても弱いことである。それは、さきほど書いたように、支援グループの大部分のメンバーは「お客さん」であるからだ。「お客さん」は自分のことで、せいいっぱいだ。グループにいても「お客さん」は、自分から何かをしようとはしない。「お客さん」は、自分が何かをされる立場だと信じているからである。そういう人たちによって構成されているグループは、外の世界に働きかける力をもっていない。

 第三の限界は、支援グループは、支援機関の枠の中でしか動けないことである。たとえば、精神保健福祉センター内に設置されていたら、支援グループも、精神保健福祉センターが関連する範囲内で活動しなければいけない。遺族が、いじめ自死の問題で学校との関係で悩んでいても、支援グループは、これについてはほとんど遺族の力になれない。遺族と学校との関係は、精神保健福祉の範囲を超えているからだ。

 全国自死遺族連絡会に集う自助グループは、一般的には、グリーフケアに否定的だ。自助グループは、どこからも独立しているから、グリーフケアの批判も自由にできる。一方、遺族の支援機関そのものがグリーフケアを推進することは珍しくないが、その場合、同じ支援機関の下で運営されている支援グループが、自助グループのようにグリーフケアを批判することは難しいだろう。支援グループは、支援機関の管理下にあり、当然、その支援機関の組織の方針にも従わなければいけない。グリーフケアだけではなく、行政への批判も自重しなければいけないだろう。

要するに、支援グループは、一部の人だけが支援者であり、他の多くは受け身の「お客さん」であり、コミュニティとしての一体感はない。そのためグループの外に向かって声を出す余力もない。外部の機関の管理下にあるため、その機関の関心の範囲を超えることができない。

留意すべきは、たとえ純粋な自助グループでスタートしても、参加する人たちが、みな「お客さん」のような受け身の人たちばかりなら、コミュニティは形成されず、社会に働きかける力も出てこないということだ。中心になった人が、孤軍奮闘するばかりで疲れきってしまえば、やがては支援機関やボランティアに頼るようになるかもしれない。そうなれば、結果として、自助グループも支援グループのようになってしまう。自助グループが警戒しなければならない点は、ここにあるだろう。

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[1]  わかちあいのルール1:当事者だけで」ので述べたように、この本ではsupport groupを「サポートグループ」ではなく、「支援グループ」と表記する。

[2] わかちあいのルール1:当事者だけで」「忘れがちな社会とのつながり」「助グループのなりたちの基本的要素1:体験の共通性」「自助グループはコミュニティである」に書いた。

[3] ただし依存症者の自助グループなど、活動の歴史が長く、グループにかかわる人が多いところでは、メンバーの会費や寄付金で事務局が運営されていることがある。そこでは有給の職員が働いている。職員は当事者であるとは限らない。職員は事務的な作業(金銭管理や出版・広報業務など)を行うだけで、グループの運営については口を出さない。

[4]  自殺対策基本法第22条では「民間団体の活動の支援」が明記されている。すなわち「 国及び地方公共団体は、民間の団体が行う自殺の防止、自殺者の親族等の支援等に関する活動を支援するため、助言、財政上の措置その他の必要な施策を講ずるものとする」とされ、遺族支援を行う民間団体には行政からの支援が期待できる。そうした状況もあって、遺族自身が支援者となり、支援グループを発足させることも可能になっている。

[5] たとえば支援グループ(「分かち合いの会」)を運営している藤井(2008)は、集まり以外の場で支援者(スタッフ)が遺族と会うことを望ましくないと考え、以下のように述べる。「スタッフは、『分かち合いの会』 以外の場で参加者と会うことは止めたほうがよいと思われます。会によっては、2次会を行い、そこでさらに参加者たちの気持ちを解す機会を設けているグループもあるようですが、できれば分かち合いを離れたら、個人的なサポートは控えることが望まれることでしょう。そこでさまざまなトラブルが起きる可能性もありますので」(p. 71)

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