わかちあいのルール1:当事者だけで

 

自死遺族の自助グループでは、わかちあいは、当事者だけで行われる。このことは、自助グループに集う多くの遺族が強調することである。

 これは、これだけを見れば、なんでもない当然のことを書いているように思われるだろう。同じ体験をして同じ思いをしている人だけがいる集まりだから、安心して話せる。このような感覚は、多くの人たちが経験していることにちがいない。

 しかし、このことが自助グループに集う人たちの間では大きな問題になっていた。なぜなら、遺族を支援している人たちは、当事者ではない支援者が、そこに参加していても、遺族どうしのわかちあいは行われると主張していたからである。

 当事者ではない人が、そこにいても、わかちあいは成立するのか。自助グループに集う遺族は、それは成立しないと言い、支援者は成立するという。主張は真逆であり、いくら議論しても妥協点は無いようだった。

 「わかちあいは成立するか」という問いは、科学的に証明できるようなものではないだろう。何をもって「わかちあい」とするかという定義にもよるだろうし、人の感じ方もさまざまだ。人の集まりにすぎないのだから、うまく行くときもあれば、うまく行かないときもある。

 私は、自助グループを専門に研究してきた研究者として、このことについて、遺族からは「いったい学問的にはどうなのか」と何度も聞かれた。「わかちあいは、当事者だけが参加する場でしか行われない」との回答を当然のことのように期待されていたが、残念ながら、自助グループの研究者の間では、これはそこまで重要な問題だとは考えられてこなかったというのが事実だろう。たしかに当事者だけが集い語り合う安心感は、文献に何度も出てくる。しかし「当事者ではない人が一人でもいたら、わかちあいは成立しない」といった主張は聞いたことがないし、それを実証しようという研究もないように思う。

 おそらくは、この問題を意識したのだろう、自死遺族支援の専門家たちが考えて、まとめた「わかちあい」についての説明は、かなり複雑で込み入っている[i]。それを簡単にまとめると、自死遺族の「わかちあい」には、3つのタイプがあり、自助グループによるもの、ボランティア等によって運営されている支援グループ[ii]によるもの、そして治療者によるグループセラピーがあるという。自助グループに集う遺族たちは、当事者ではない人が参加する支援グループや、治療者が指導するグループセラピーで行われる話し合いを「わかちあい」と呼ぶことは、はっきりと拒否するのであるが、それは、ひとまず置くとしても、問題は、自助グループについての次の一節である。

自助グループの例会/ミーティングの呼称に関しては、自死遺族に限らずその他様々な自助グループにおいて、当事者しか参加できないものを“クローズド・ミーティング”、当事者以外の者がオブザーバー参加できるものを“オープン・ミーティング”と呼ぶことがしばしばであり. . . [iii]

と述べる。つまり、自助グループの「わかちあい」と言えども、オープン・ミーティングの場合は、当事者ではない者も、そこに参加するというのである。

 自助グループに集う遺族は、この考え方に2重の意味で反対なのである。まず「わかちあい」は、自助グループ以外でも行われるということを認めない。「わかちあい」とは、自助グループにおいて初めて可能になる特別なことなのである。「同じ経験をした者が、たまたま出会ったから自分の気持ちを話しました」という軽いものではない。ボランティアや治療者など、愛する家族を自死で喪うという途方もなく悲しい出来事を体験したことがない人の前で、ぺらぺらと話せる内容ではない。「わかちあい」という言葉を、あんまり「値引き」するな、安っぽく使うなということだ。

 また自助グループの「オープン・ミーティング」でも「わかちあい」が行われるのだと言わんばかりの、この専門家たちの文が受け入れられない。「オープン・ミーティング」となれば、自助グループの「わかちあい」に、専門家が呼びもしないのに入ってくるだろう。当事者ではない人が、そこに参加すれば、当然、話される内容も変わってくる。内容が浅くなるのである。その場が初めての遺族は、その程度のものが「わかちあい」だと思ってしまう。遺族だけが参加する、非常に率直な、悲しみだけではなく、恨みや怒りも交えた本当の自助グループの「わかちあい」を知ることなく終わってしまうかもしれない。自助グループに集う遺族は、それを怖れるのだろう。

 自助グループに「オープン・ミーティング」の形があることは、否定しがたい事実である。私自身の経験を言えば、これまで研究者として、難病の子どもの親の会や、アルコール依存症者の自助グループにかかわってきた。どちらの自助グループにも「オープン・ミーティング」がある。難病の子どもの親の会にいたっては、逆に「オープン・ミーティング」しかない。親しか出席できないという「クローズド・ミーティング」は、ほとんど存在しないといっていい。

 私の問いは、むしろ自助グループに集う自死遺族たちは、なぜ、そこまで「クローズド・ミーティング」にこだわるのか、当事者ではない人の参加を拒否し、遺族だけで「わかちあい」をしたいと望むのか、ということだった。

 私が、よく使う説明は、女子学生たちが輪になって楽しそうに、おしゃれやボーイフレンドのことを話しているとして、そこに定年退職が近い男性の私が入っていけば(いくら学生たちの邪魔にならないように黙っていますよと約束したところで)雰囲気を壊してしまうでしょう、というものだった。

 この例え話は、わかりやすくて完璧だと思えたのだが、よくよく考えれば、アルコール依存症の人たちでも同じようなことが言えるはずである。一杯の酒のために人生に絶望してきた人たちのなかで、ひとり全くそのような体験がない人間が入れば、当然、話される内容も変わってくるだろう。にもかかわらず、アルコール依存症の人たちの自助グループは、当事者ではない人が参加する集まりでも「わかちあい」を行おうとしている。その違いは、どこにあるのだろうか。

 私の答えを言ってしまえば、それは生と死の断絶に重なるのではないか、ということである。患者や障害者の自助グループでは、患者も家族も生きている。遺族の自助グループでは、自死した人はすでに亡くなっている。その意味で遺族は死者に向かいあっている。一方、遺族支援の専門家たちが見ているのは、遺族ではなく、死別体験者である[iv]。専門家が支援しようとしているのは「死者と向かいあう人」ではなく、「自分自身の内にある辛い死別体験をどうにかしたいという人」である。遺族は、死によって深く刻まれた断絶感に苦しんでいるのに、専門家がもっぱら語るのは生き残った者の喪失感のみである。だから専門家から見れば、死別体験者も同じ地平で生きる人であり、体験は違っても、話し合えばわかりあえるはずだという理屈になる。

 遺族は違う。死者と向かいあっているという点で、専門家やボランティアとは決定的に異なる。死者と生者の間は、それほど大きい。人は生きているか、死んでいるかのどちらかであり、その中間は無く、彼岸は無限に遠い。愛する人は異界にいるのである。叫べども叫べども、その声は届かず、また向こう側からも何も聞こえない。その計り知れない虚無の絶壁に立っているという感覚は、自助グループに集う患者や障害者や、その家族には無い。

 死や死者と真正面から向かい合っているという点で、遺族と、遺族ではない人の間には、途方も無く大きな溝がある。遺族が遺族だけの間でしか「わかちあい」ができないという理由は、こうした死と生の隔絶に由来しているのだと私は信じている。

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[i]  大塚ほか, 2009.

[ii]  自助グループの研究者の間では「サポートグループ」と呼ぶのが一般的だが、大塚ほか, 2009にしたがって、この本では「支援グループ」と呼ぶことにした。「自助グループのはたらきの基本的要素1:わかちあい」ので述べたように、日本の文化になじむためには「シエン・グループ」ではなく、「ささえる集い」とでも訳したほうが良いのだろうが。

[iii]  大塚ほか, 2009, p. 4

[iv]  遺族と死別体験者の違い. 死生観の違う欧米では、生者と死者の距離は大きく、遺族自身も自らを死別体験者と考えているのではないか。とすれば、欧米と日本では、自死遺族の自助グループのあり方も大きく違ってくるはずである。

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