「とき」と時間

 

悲嘆回復のプロセス論に違和感をもつ遺族がいるとしたら、それは、プロセスと堅く結びついている「時間」の問題なのかもしれないと書いた[i]。ここでは、これについて説明したいのだが、そのために、まず「とき」と時間を区別しよう。ある言語学者は「とき」と時間の違いを以下のようにいう。

「時間がない」と表現するのに、「ときがない」とはいわない。ここに「時間」と「とき」との端的な意味の差が現れる。「時間」は計量思考に基づく概念であるので、それが減ったり、不足したり、なくなったりするのだと気づく。. . .  逆の場合も考えてみよう。「時間をもてあます」というのに、「ときをもてあます」とはいわない、という対立が見られる。時間は、計量思考に基づいているので、必要以上の単位は、余りとして放り出される。そして、その使い道が分からないとき、「時間をもてあます」ということが起こる. . . 。「とき」には、もともと単位と呼ぺるようなものはなく、従って計量思考にも乗らず、その結果「もてあます」ということも起こらない。. . . 「とき」は、個人に寄り添う。「うれしいとき」や「悲しいとき」がある。「うれしい時間」や「悲しい時間」はありえない。喜びや悲しみを時間単位で区切ることができないからである。[ii]

「計量思考に基づく概念」とは、時間は計るためのものだということだ。「1時間たった、2時間たった、15分しかたっていない」などと時計を見ながら計るのが「時間」である。計ること、数えることができるから、時間が「足りない」と感じたり、「余ってしまった」と思う。

 「『うれしい時間』はありえないと言うが、オーケストラによる交響曲の演奏が始まると私は至福の時間をすごした、というのではないか」との反論もあるかもしれない。しかし、そのときは演奏は午後3時に始まり、午後4時に終わったということが可能であり、演奏の時間が計られているということだろう。演奏が始まれば「至福の時間」が始まり、演奏が終われば、その時間も終わる。つまり正確に言えば、時間は「演奏」の時間だったのであり、「至福」はその演奏に同時に伴う体験にすぎなかったのである。

 同様に「悲しい時間」はありえないというのは、「私は午後2時から午後4時まで悲しかった」ということが、通常は考えられないということだ。午後2時から午後4時まで何か悲しませることが発生していて、それを見ていたから悲しかったということは、あるかもしれないが、そういう説明抜きに「悲しい時間」があるとは考えにくい。悲しさが、いつ始まって何時何分に終わったということなど、ありえない。

 このように考えれば、「悲しみが長引けば、正常ではない」という言い方が、とても不自然であることがわかる。もし、それが不自然ではないとしたら、それは悲しみを反応とみているからだ。そして悲しみを人間にとって根源的なものととらえず、一つの反応としてみる見方は、グリーフワークの必要性を唱える人にとっては普通のことのようだ[iii]

 悲しみを反応としてみれば、悲しみは、私たちから離れて、外のものになる。悲しみを病気とみる考え方だ。病であれば、その時間は、計測可能になる。たとえば、高熱が出はじめた時刻は、午前9時であり、そこから10時間、高熱が続いたといえる。

 悲しみを反応としてみれば、悲しみは、私たちの手の届かないところに行ってしまう。つまり私たちの意思ではどうにもならないものになる。頭痛のようなものだ。自分の頭のなかに痛みがあるようなのだが、自分ではどうにもならない。

 では、本当に頭痛のようなものかというと、そうではないだろう。我が子を喪った哲学者は「この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである」と言っていた[iv]。悲しみはある、しかし、その悲しみが無くなることを求めないというのである。なぜなら、それは愛しさでもあるからである。

 我が子を「かなしく」するという古代の人々の思いは、他で述べた[v]。「かなしく」するとは、自分自身と重ねてしまいたいほど深く愛するということだった。ここで悲しみは、反応ではなくなる。そこには悲しみを自ら受け入れ、それを自分のものとして大切にするという思いがある。「悲しいときをおくる」とは、反応として「悲しみ」が自動的にあるいは生理的に生じるにまかせたということではなく、亡き人を「かなしく」するときを持ったということだ。

 グリーフワークでいう「喪の仕事」と似ているようで違う。どちらも自分のほうから取り組むものであるが、「喪の仕事」は、自分がさらに前に進むために障害となっている何物かを壊して、あるいは消化して無くしていくものだが、「悲しいときをおくる」とは、悲しみを自分の中心に置きながら生きていこうとすることだろう。

 「とき」は、私たちとともにあるのであり、「とき」が単独であるわけではない。むかし悲しかったとき、いま悲しかったとき、これから悲しくなるとき、すべて同じものは何ひとつなく、それぞれが一回きりなのである。それに対して時間は単独で存在する[vi]。「時間を無駄にするな」とか、「時間をうまく使え」とか、私たちの道具のように、私たちの外にあるのだが、同時に、どんなものも一律に支配してしまう力をもつ。たとえば10年前には笑ってすごした1日も、いまは泣いてすごした1日も、同じ1日であり24時間だとしてしまう。

 そんな乱暴な支配的な時間によって私たちの尊い気持ち、亡き人を愛しいと思う心が、測定され、分割され、私たちに何の関係もない尺度に当てはめられて、矯正されようとしてしまう。自死遺族の自助グループが、悲嘆回復のプロセス論に「気分が悪くなった」というのは、そういう時間の概念が背景にあったのだろう。

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[i] プロセス論が拒否される第三の理由:「始点」があるから

[ii] 瀬戸, 1995, pp. 181-182

[iii] その例は探せばいくらでもあるが、たとえば、坂口(2011)は「死別による感情的反応は、悲しみをはじめとして多岐に及」ぶとして、悲しみを感情的反応の一つとみなしている(p. 12)

[iv] プロセス論が拒否される第一の理由:悲しみを否定するから

[v] 悲しみは愛しさ

[vi] ここでは「とき」と時間を区別したわけだが、似たような分類は橋本(2002)も紹介している。それによれば、「二つのタイプの時間」があり、ひとつは「物理的時間:客観的に数量化され算定できる時間。例.地球の運動(自転、公転)で測られる時間;. . . 知覚・認知的処理の時間;距離に読みかえられる時間」であり、もうひとつは「経験的時間:主体者により認識される時間。例.存在者の存在を支える現象学的な、あるいは実存的な時間;出来事に還元される相対的な時間」である(p. 62)

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