プロセス論が拒否される理由として「悲しみを否定するから[i]」「終結があるから[ii]」という二つをとりあげた。実は、この二つとも従来から悲嘆のプロセス論への批判として言われていることであった[iii]。しかしプロセスというかぎり、あと一つ注目すべきところがある。それは「始点」である。つまり、プロセスの途中と終点を取り上げれば、あと残るは「始点」だけだ。ここにも遺族が拒否する理由があるのではないかと論理的な帰結として考えたわけである。
遺族のかたはよく「あの日から何もかも変わった」とおっしゃる。その言葉だけをとれば、遺族であることの「始点」のように聞こえるが、「始点」とは、そこから何かが始まることだ。しかし、私が遺族のかたと話していても、自死を知ったときから何か新しいことが始まったように話されたかたは誰もいなかったように思う。少なくとも私の記憶にはない。
私が印象に残っているのは、一人娘を亡くしたかたが「もう、いまは余生だと思っています」と何度もおっしゃっていたことだ。つまり、そこで全ては終わった、「始点」というより、そこが「終点」なのである。
田中さんは長男を亡くされてから、さまざまなことがあり、いまでは日本の自死遺族の市民運動を力強く牽引されている。それを考えると、長男を亡くされたことが田中さんにとって活動の「始点」になっているように見える。しかし、田中さんは、ことあるごとに「いま息子が生き返ったら、こんな活動はぜんぶ止めてしまうよ」とおっしゃる。「始点」のように見えるが、実際にはそうではないのではないか。何かが始まったとしても、亡くした息子さんの命の重さからいえば、なんでもない軽さであり、「始点」と呼ぶほどのものでもないのだろう。
また「始点」であれば、歩き始めたら始点から遠ざかる。しかし、子を喪った親であれば「生きていれば、いまごろ高校生だろう、大学生だろう」と思い、年月がたっても繰り返し、愛する人を喪ったことを思い出し、「始点」に戻るような心境なのだろう[iv]。とすれば、くりかえしその周囲をまわる軌道の「中心点」であったとしても「始点」などではないのである。
プロセス論とは、そもそも過程とか経過をいうのであるから、変わらないものには、プロセスそのものが考えられない。田中さんは私に、50年前に子を亡くした母が嘆いていた話をしてくれたことがある。終戦の日が近づくと、70年、80年前に亡くなった家族の墓の前で手を合わせて泣いている人の姿がテレビで放映される。この人たちも70年も80年も泣いていたわけではないはずだ。しかし、これだけの時間がたっても悲しみは、この人たちの心のなかに残っている。
心に残っているといっても、深い傷跡のように消そうとしても消えないから残っているのではない。子を亡くした哲学者が「何とかして忘れたくない . . . せめて我一生だけは思い出してやりたい」と書いていたことはすでに述べた[v]。悲しみが残るというだけではなく、悲しみを残したい、悲しみを無くしたくないという強い思いがあるのである。
それはきっと大きな岩のようなものなのだ。何年たっても岩は変わらない。年月がたてば、その表面に苔が生え、土が被さり、見た感じは変わることだろうが、岩そのものは変わらない。同じ場所に同じ重さで、どこにも動くこと無く、そこにあり続けるのである。
この悲嘆回復プロセス論の「始点」について考えることは、プロセス論が間違っているかどうかという以前の、より根本的ないくつかの問題の議論につながるだろう。ひとつは、人間にとっての時間の問題である[vi]。悲しみを時間の流れから見ているのはなぜかという問題である。また悲嘆回復プロセス論が、ここまで広がった理由はなぜかということである[vii]。これについてはまた後日述べたいと思う。
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