プロセス論が拒否される第一の理由:悲しみを否定するから

 

「悲嘆回復プロセス論が間違っていることを証明してほしい」と遺族から言われて、戸惑ったことはすでに述べた[i]。しかし、回復の五段階モデルに代表されるような単純なプロセス論は(残念ながら、教科書を含め、さまざまな書籍に書かれていて、多くの人が未だに信じているのだが)専門家の間ではもう過去のものとされていることも述べた[ii]。心理学者でもない私には、これ以上、このプロセス論について議論することは私の力量を超えているし、また関心もない。

 私がここで強調したいのは、悲嘆回復を五段階にしようが、六段階あるいは十二段階にしようが、「この段階は人によって歩み方が違う」といった注釈をつけたとしても、おそらくは自助グループに集う遺族たちは、それを受け入れないだろうということ。そして、その「受け入れない理由」について考えてみる必要があるのではないかということだ。

 私が推測するには、理由としては三つある。ひとつは「プロセス」という限り、前に進むことを前提としているのである。悲しんでばかりいてはダメだ、立ち止まっていてはいけない、やや厳しい言い方をすれば、遺族に対して、そのまま悲しんでばかりいては病気になるぞと脅しているような考え方が底流にある[iii]。たとえば、この分野で有名な著者は十二段階のプロセス論の説明の前に、次のように語る。

悲嘆のプロセスを上手に乗り切れなかった場合、遣される人々の心身に多様な悪影響を及ぼす可能性が高い。未解決の悲嘆が多くの危険な疾病の原因となり得る以上、予防医学の観点からも、遣された家族の健康を守るために、悲嘆のプロセスへの理解は欠かせない。. . . 悲嘆のプロセスは苦痛に満ちた体験であるが、死へのプロセスと同じように、この大いなる挑戦に応えて乗り切ることができれば、人格成長の得がたい機会ともなし得る。悲嘆のプロセスとは、受動的に苦悩に身を委ねることではなく、能動的に取り組むべき人生の課題と言えよう。[iv]

遺族への励ましの言葉にはなっているが、要するに「前に進め」ということである。いまのままではいけない、自分のふりかかった課題を「乗り切れ」と言っている。悲しみのただなかにある遺族の背中を押している。

 悲しみのままにいることが、それほど良くないのだろうか。「遣される人々の心身に多様な悪影響を及ぼす可能性が高い」と本当に言えるのだろうか。これについては、すでに上に述べたように悲嘆回復に一定の段階や過程があることじたい科学的に否定されてしまっているのだから、問う必要も無いだろう。

 西田幾多郎といえば、日本の最高峰の哲学者とされている偉人である。その西田は、幼い2人の我が子を同じ年に病いで亡くしたとき、同じく子を亡くした友人に向けて以下のように書いた。長くなるが、心を打つ名文であるので引用したい。

親の愛は実に純粋である、その間一毫(いちごう)も利害得失の念を挟む余地はない。ただ亡児の俤(おもかげ)を思い出(い)ずるにつれて、無限に懐かしく、可愛そうで、どうにかして生きていてくれればよかったと思うのみである。若きも老いたるも死ぬるは人生の常である、死んだのは我子ばかりでないと思えば、理においては少しも悲しむべき所はない。しかし人生の常事であっても、悲しいことは悲しい . . . 人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれが親に取っては堪え難き苦痛である。時は凡(すべ)ての傷を癒やすというのは自然の恵(めぐみ)であって、一方より見れば大切なことかも知らぬが、一方より見れば人間の不人情である。何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめて我一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。昔、君と机を並べてワシントン・アービングの『スケッチブック』を読んだ時、他の心の疵(きず)や、苦みはこれを忘れ、これを治せんことを欲するが、独り死別という心の庇は人目をさけてもこれを温め、これを抱かんことを欲するというような語があった。今まことにこの語が思い合されるのである。折にふれ物に感じて思い出すのが、せめてもの慰藷(いしゃ)である、死者に対しての心づくしである。この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである[v](下線は岡による)

 西田はこれを書いた4年後、不朽の名著「善の研究」を著した。これ以前も、そしてこれ以降も家族の死を何度も経験した西田にとって「悲哀」は「『人生』の主調」であったとされる[vi]。とすれば、この西田は悲嘆回復のプロセスは全くたどることは無かった。しかしながら、もちろん先に述べたような「心身に多様な悪影響」は無かっただろう。あったとすれば、これだけの哲学的な業績を残すことはできなかったはずだからだ。西田が残した「哲学の動機は『驚き』ではなくして漂い人生の悲哀でなければならない」[vii]という言葉はよく知られている。

 要約すれば、プロセス論が拒否される第一の理由は、遺族の悲しみにある状態を否定し、次のステップに進めと指示しているからだろう。「喪の仕事」として強調されることも同じで、そこになすべき課題があって、その課題が終わっていない状態なのだと言うから、遺族がいまの自分たちのあり方が否定されているように感じる。それに対して、遺族のありのままを「そのままでいい」と肯定するのが、自助グループなのである。

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[i] 「悲嘆回復プロセス論は間違っている」

[ii] 「グリーフケアのありがちな間違い」

[iii] 当事者に対して「言われているようなプロセスをたどらないと病気になるぞ!」というような脅しを感じさせてしまうようなこの考え方には、以前からかなり批判が出ていたようだ。三輪(2010)は、悲嘆回復のプロセス論への批判が1980年以降出てきたとして次のように言う。

最初に起こった批判は、悲嘆を「正常な悲嘆」と「病的な悲嘆」に区別し、医学的アナロジーに基づく考え方をしていることに対してであった。この批判のもとにあるのは、そもそも「正常な悲嘆」などという、一律的で普遍的な悲嘆というものがあるのかという疑問である。(p. 20)

[iv] Deeken, 1996b, p. 157.

[v] 西田, 1980, p. 230.

[vi] 上田, 2002, p. 88.

[vii] 西田, 2002, p. 92.

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