プロセス論が拒否される第二の理由:「終結」があるから

 

プロセス論が拒否される第二の理由は、プロセスであるかぎり終結が前提とされ、それが目指すべき目標になっていることである。しかし、遺族にとって悲しみが終わってしまうことは、亡き人とのつながりも無くなってしまうことではないだろうか。先にあげた西田の言葉にあるように「何とかして忘れたくない. . . せめて我一生だけは思い出してやりたい」「この苦痛の去ることを欲せぬ」というのが、自助グループに集う遺族の思いではないか[i]

 「いや、そうではない、私は遺族だが、終結があってほしい」という人もいるだろう。私は遺族の自助グループに集う人々に十年以上会ってきているが、「終結があってほしい」という人に会ったことがある。その方は、それを言ったあとしばらくして自助グループを去った。それは自然な流れだと思う。終結があれば、遺族ではなくなる。つまり「遺族であること」が、自分自身の「芯」ではなくなったわけだ[ii]

 「悲嘆の終結がありえない」と私は主張しているわけではない。「悲嘆の終結がなければ、正常ではない」という考えを否定しているだけである[iii]。つまり悲嘆には終結はあるかもしれないし、ないかもしれない。終結があることだけが「正常」とされてきたが、そうではなく「終結は無くても問題ない」ということなのである。

しかし悲嘆には終結があるべきで、なければ病的であり、終結に達しない悲嘆をもつ遺族になんとしても「治療」を受けさせ、その悲嘆を終結に向かわせるということを一部の専門家を自称する人々は目指していた。その動きに反対しているのが、遺族の自助グループなのである。なぜなら自助グループに集う遺族たちは、悲しみが終わることではなく、悲しみとともに生きることを願っているからである。

 自助グループに集う遺族たちが、遺族のサポートグループで嫌だと思うもののひとつに「気持ちを点数化するアンケート」[iv]がある。たとえば、最悪の場合はゼロ、最高の場合は100として、グループの集まりが終わったあと、今の気持ちは?と聞いてみるわけだ。

 ここにあるのは、非常に単純化された人間の気持ちだ。最高か、最悪か、それを結ぶ一直線上の中間のどこかにいまの気持ちがあるという想定で「感情の一直線モデル」と呼んでもいい。とすれば、悲しみが終了することなく続くとすれば、人生は悲しみ一色となる。「悲しみとともに生きていく」という自助グループのメッセージは、絶望をゼロとすれば、おそらく1020以下の低い点数で人生をずっと続けていくことを意味する。感情について、このような「一直線モデル」しかもっていないのなら、「悲しみとともに生きていく」という自助グループのメッセージは、まさに暗い人生を生きていくことと同義であり、共感を呼ぶものではないだろう。

 しかし、人間の気持ちは、そんなに簡単に一直線で表せるようなものではない。心から悲しいと思いつつも、嬉しさを感じることがある。幸せを身体いっぱい感じながらも、不安をかかえることがある。「幸せが100だけど、不安が20ある、それなら差し引き80がいまの気持ちだ」というのは「一直線モデル」だが、私たちは100の幸せも、20の不安も同時にかかえるというのが本当のところではないだろうか。

 すでに述べたように自助グループに集う遺族と私はカラオケに行くことがある[v]。遺族のカラオケの盛り上がりように驚いている私に遺族の田中さんは言った。「遺族どうしだから、安心して歌えるんですよ。どんなに笑って歌っていても、心のなかには深い悲しみがあるって遺族どうしだったらちゃんとわかってくれるから。遺族じゃない人だったら、きっと『ああ、あんなに楽しそうに歌っているのだったら、もう亡くなった人も忘れたんでしょ』となってしまう。」感情の「一直線モデル」なら、カラオケで笑いながら歌っている人が、悲しいなんてありえないということになってしまう。笑いながらも悲しい、いろいろな感情がまじって心のなかを行き来している。それが人間なのだろう。

 感情の「一直線モデル」を使った「気持ちを点数化するアンケート」は集団療法でよく使われるテクニックで、それを使うことじたいは非難すべきことでもない。実際、それは集団療法の効果を計る基本的な手法だと考えられている[vi]。しかし、そのアンケートを受けることによって、遺族は、感情は点数化されてしまうのだと思うようになるだろう。つまり、アンケートを受け終わったあとも、遺族は自分で「いまの気持ちは点数でいえば、ゼロから100のうちのどれくらいだろうか」と考えるようになるかもしれない。それは、たとえば「夕食においしいものを食べ、とても気分が良くなったときに気分の点数が上がり、悲しみを忘れた自分を責める」といったことにつながらないだろうか。

 自助グループは、感情は、そのような単純なものとは考えていない。いや、自助グループだけではなく、ほとんどの人が気持ちを数字で表そうなどとは考えていないはずだ。ただ心理的な効果を知りたい一部の研究者が、自分たちの必要があって数字で表す。数字で表せるような単純なものなら、その数値がある一定の範囲内に収まるようになれば、それが「悲嘆の終結」と解釈されるのかもしれない。

 自助グループに集う遺族が「悲しみに終わりはない」というとき、なにもこれから真っ暗な人生を歩くと宣言しているわけではない。悲しみがあっても笑えるし、悲しみがあっても楽しく唄うこともある。それでも悲しみは、亡くなった人への愛おしさとして、しっかりと肌身離さず持っていこうとするのが、遺族の姿勢なのだろう。

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[i] プロセス論が拒否される第一の由:悲しみを否定するから

[ii] 遺族として生きる

[iii] これを否定することは、科学的にも間違っていないことは 「グリーフケアのありがちな間違い」で述べた。終結を前提とするプロセス論については、以前から批判があったようだ。三輪(2010)は次のように述べている。

悲嘆プロセスにはいくつかの段階があり、時間の経過に伴って解決という最終ゴールへと直線的に進んでいくとする段階モデルの考え方に対して. . . 多くの批判が向けられるようになった。具体的には、段階モデルでは、すべての死別体験者が予め決まったプロセスを一定方向に向かつて同じ道を進んでいくとしていること、さらには、悲嘆が「最後には晴れる霧ででもあるかのように. . . 」ゴールが必ずあるとしていることに対して多くの批判が向けられるようになったのである。(p. 20)

[iv] アンケートの例としては、山口, 2006, p. 44.

[v]自助グループはコミュニティである

[vi] Garvin, 1997, p. 194.

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