自助グループのなりたちの基本的要素2:活動の自発性

 

自助グループの成り立ちの2つめの基本的要素は、個人の活動の自発性である。同じ体験をした人たちが集まっていても、それが、その人々の自発的な行為の結果でないのなら、それは自助グループではない。たとえば、病院や福祉施設で、同じ病気や障害のある人たちが、病院や施設の職員にうながされてグループ活動に参加することがある。そこで体験のわかちあいが行われたとしても、それは自助グループとは呼ばない。誰かに指導されたり、促されたりして集まったものは、自助グループとは呼ばないのである。

 自助グループの「自発性」は、単に自分から希望するという意味ではなく、社会貢献をするという意味まで含まれる。だからこそ、自助グループは、ボランティアグループとして認められている[i]。「自分たちだけで活動しているのに、どうしてボランティア活動なのか」という疑問が出てきたら、「すべての自助グループは『まだ見ぬ仲間のために』働いている」[ii]ことを思い出していただきたい。自死遺族の自助グループは、行政から補助金を受けることがあるが、それは、現時点でそこに集う人々だけのために公的な資金が出されたわけではない。そのグループが、ボランティアグループとして、地域社会でまだ孤立している多くの自死遺族の助けになる。それが期待されているのである。そうでなければ、納税者が不公平だと思うだろう。

 さて、そのボランティアであるが、以前は、社会奉仕活動と呼ばれていた。それが、なぜボランティア活動と言うようになったのか。その理由については、それほど知られていないように思う。なので、多くの社会奉仕活動には欠けているが、ボランティア活動には、その中核的な価値観としてあるものについて書いておきたい。それは「ボランタリズム」である。それについて、「ボランタリズム」の実践者であり、研究者でもあった岡本(1981)は、次のように述べる。

ボランタリズムは「自由意志」を精神的基盤に置きます。時には国家や制度や慣習を超えて行動する自由な精神です。その自由性のゆえに共同体の困難や危機を見て、制度や組織に組み込まれた者には期待できない批判、抵抗、創造、連帯、提言といった行動を生み出すのです。[iii]

 つまり、自発的といっても、人から言われたとか、それが良いと世間から勧められたとか、そういう誰かに従順に従うという形ではない。大勢(たいせい)に流されるようなものではない。たとえば、みんなが、我も我もと、ある方向へどっと流れていく。なんだろうと、よくわからないが、とにかくついて行ってみようと、群衆にまぎれて歩いていく、あるいは走っていく。そのときに周りが叫べば、自分も何か大声を出したくなるだろう。群衆心理とは、そういうものだが、それは誰が命じたわけでもなく、「自発的」といえば「自発的」なのだが、上で述べたボランタリズムとは無縁のものだ。そうではなく、ボランタリズムは、自分の自覚的な決意に基づいた行動である。大勢(たいせい)への批判や抵抗を含む。大多数が沈黙しているところで、声をあげるのである。

そんなボランタリズムの典型は、自死遺族の自助グループを最初に立ち上げた田中さんの行動だったと思う。以下は、そのときの彼女の体験だ。

長男を亡くして“助けてください”と県、市、ボランティア団体、カウンセリングの専門機関などに電話をしたり、知事、市長に手紙を出したり、行政のシンポジユウム等へ参加し、会場から発言して支援を求めたが、結果は全て反応無しであった。. . . 仕方なく“自分のことは自分でやるしかない”と決意し、分かち合いの会の立ち上げを公表したところ、ある自死遺族支援団体の代表から電話をもらい、猛反対された。「子どもを亡くして半年で、しかもファシリテーターの勉強もしないでとんでもない、マスコミにも絶対出ないようにしなさい、やっては駄目です。待っていなさい、秋になったら立ち上がる会があるから、やるにしても春頃やりなさい。」という内容のことを言われた記憶がある。[iv]

 つまり自死遺族支援の団体の代表者から、自助グループを始めることを勧められたのではなく、逆に、それを禁じられた。それにもかかわらず、グループを発足させた。そこに遺族の決意に基づいたボランタリズムがあり、自助グループの成り立ちの基礎にある「自発性」がある。

 また田中さんたちは、当初から、行政機関を含め自死遺族の支援者の間で圧倒的に支持されていたと思われる「悲嘆回復プロセス論」に対して、「それは違う」と、異議申し立てを行っていた[v]。これもボランタリズムからの批判であり[vi]、自助グループの「自発性」に深く関係する。

 要約すれば、自助グループの成り立ちの基本的要素である「活動の自発性」は、単に自分から行動するということではなく、自分だけの損得勘定を超えて、不特定多数の「まだ見ぬ仲間」にまで届くものだ。そして、それは自助グループに集う人々を抑えつけるような圧力をはねかえす勢いまでも含んでいる。 

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[i]  Munn-Giddings (2016)も、自助グループをボランティアグループとして論じている。

[ii]  「自助グループのなりたちの基本的要素1:体験の共通性」

[iii]  岡本(1981), p. 26.

[iv] 田中(2009), pp. 50-51.

[v] 悲嘆回復プロセス論は間違っている

[vi]  支配的な考え方に対して、それへの抗議の意思を示すことは、ボランティア活動のイメージと違うと言うのなら、それは、稲垣(2015)によれば、「1960 年代後半から70 年代前半に社会運動にかかわった人たち」が持っていたイメージに近いだろう。彼らは「ボランティア活動は行政機能を補完する活動で、その活動を担うボランティアたちは体制に従順な人たちというイメージを持っていた」という(稲垣, 2015, p. 51)。

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