自死遺族の「内なる差別」につながるも

 

前に「内なる差別」について書いた[i]そこで自分自身がもつ認知症への偏見を乗り越えることが、社会の偏見を無くしていく一歩だと考えている認知症当事者の紹介をした。「でも、認知症と自死遺族の問題は違うのではないか」という当然の疑問を、「内なる差別」という観点から考えていきたい。

 まず自死遺族であることは、黙っていればわからないことがある。もちろん事情を知る人にはわかるだろうが、知らない街を歩いているだけで、自死遺族だと言われることはない。身体障害や肌の色は、見ただけでわかるから大きな違いだ。認知症は、すぐにはわからないかもしれないが、その様子からそれとわかることもある。それに比べると、自死遺族であることは外見からも、その様子からもわからない。だから隠すことができる。

 また自死遺族は、予期することなく急に遺族になることが多いだろう。つまり、昨日までは遺族では全く無かったのに、今日とつぜん、遺族になる。いきなりゼロから百になる感覚なのである。認知症であれば、少しずつ進んでいく。少しずつ進んでいくから、受け入れる準備ができる。自死遺族の場合は、そういう準備期間がない。不意に自死遺族になってしまうから、自死遺族になる前の自分の意識が残っていて、自死や自死遺族に対するマイナス・イメージを持っていたとしたら、それは、そのまま自分に戻ってくる[ii]

 さらに自死遺族は孤立している。疾病や障害の場合、同じ医療や福祉サービスを利用することが多いので、そこで同じ状況にある人と出会うことがある。しかし、自死遺族の場合は、自助グループはもちろん、行政やNPO団体が主催する集まりもあるのだが、そこに足を運ぶ人は自死遺族のなかでも少数だろう。病気の人なら必ず、病院に行くことと比べたら、利用するサービスによって遺族どうしがつながることは少ない。また、先に述べたように外見からは全くわからないから、たとえそばに同じ遺族がいても、それに気づくことはない。

 そして、多くの遺族は、遺族であることによって非常に強く辛い感情をともなう状況におかれる。遺族の手記には、悲しさだけではなく、絶望感や、怒り、自分を責める気持ちも書かれている[iii]。また「二次的被害」とも呼ばれる「外からの差別」も[iv]、この状況をいっそう厳しいものとするだろう。

 以上をまとめると、自死遺族は、事情を知らない人には遺族であることを隠すことができる。また、たいていは、突然、遺族になるので、どうしてよいのかわからず、しかも孤立していて他の遺族がどうしているのかもわからない。強い否定的な感情と「外からの差別」によって遺族は、自分をよりいっそう抑えてしまうかもしれない。

 では、この「内なる差別」、つまり自分自身が自分を蔑(さげす)んでしまい、貶(おとし)めてしまうことをどのように無くすことができるのだろうか。それは、これまで差別と闘ってきた人々の例を考えると良いと思う。

 たとえば、私の手元には「精神障害者の主張」という1994年(いまから30年近く前)に出された本がある[v]。ここには多くの精神障害者が自分の主張を書いているが、それぞれの主張の冒頭に大きく顔写真が載せられている。精神障害者が全員、実名と顔写真付きで、一般の書店に並ぶような本に寄稿したということが画期的だったと誰かから聞いた覚えがある[vi]。たしかに、そのころのテレビでは精神障害者が語るときは、顔にモザイクがかかっているか、後ろ姿だけだった。その慣例を破ったのが、この本だったというのである。いまでは、若者たちが自分の精神障害を気負うことなく語れるようになったと思う。私は大学で働く教員だが、最近、学生たちが、まるで「腰を痛めている」というのと同じような自然な調子で「私には精神障害がある」と語るのを聞いている。いまでは精神障害者への差別が全く無くなったかというと、そんなことはないだろう。しかし、30年前では考えられなかった状況にはなっている。これも自分の障害を隠さない精神障害者が増えた結果なのではないだろうか。

 田中幸子さんは、実名で顔を出し、社会的に活躍されている。このような人が全国で少しずつではあるが、増えている。この流れが続いていけば、やがて自死遺族の「内なる差別」も軽減し、ひいては一般社会がもつ自死遺族への偏見も、それが有るとしても[vii]しだいに無くなっていくように思う。

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[i]内なる差別.

[ii]  川島(2020, p. 26)は、ある自死遺族の以下のような言葉を紹介している。「自死遺族が病死遺族らと違うのは、自死に対するスティグマ(偏見)を持ったまま当事者となることである . . . 。つまり自殺は他人事であり、テレビドラマの世界のことであり、あるいは弱い人がするものだ、遺伝する、罪のある行為だといった自死に対する偏見を持っているが、身近に自死がおきるとそうした偏見を持ったまま当事者となり、突然自分事となり、そのギャップに苦しむこととなる」。

[iii]  多くの手記が出されているが、たとえば、全国自死遺族連絡会(2012)

[iv] これについては「自死遺族への差別について」で述べた。

[v]「精神障害者の主張」編集委員会(1994).

[vi] この本には、多くの精神障害者に混じって3名の障害者ではない者も寄稿している。そのうちの1人が私だったので、こういった話も耳にする機会があったのである。

[vii] ここでは「偏見が有るとしても」と条件付きで書いた。繰り返し書くと(「自死遺族への差別について」でも書いた)、どんなことにも偏見をもつ人はいるし、持たない人もいる。自死遺族への差別や偏見を、私のような遺族ではない人間が書くと、あたかも社会にいる誰もが一人残らず偏見を持っているかのような印象を与えてしまうのではないかと危惧している。そんなことは無い。たとえば、ある人は葬儀の前に「自ら知り合いに長女の死を伝えるメールをした。. . . その結果として、弔問・通夜・告別式には多くの方に来ていただくことができた。またその後でも、声をかけてくださった方が多数いた。その中で、筆者が非難されることはなかった」と書いている(吉永, 2011, p. 10)。また末井(2013)は以下のように自らの体験を書いている。「僕の母親は、僕が小学校に上がったばかりのころ、自殺しました。隣の家の10歳下の青年とダイナマイト心中したんです。. . . その後、一緒に爆発した青年の両親には責められたし、事件を起こした家として白い目でみられた。だけど田舎は大きな家族みたいなものだから、学校の先生や村の人たちがよくしてくれて、それほど心に深い傷を負いませんでした」(pp. 2-3)という。身体障害をもつ人の場合は、差別されることなく街中を歩く、あるいは車いすで動く姿を日常的に見ることができる。しかし自死遺族は、外見上、遺族ではない人との区別ができないし、(自助グループ等に加わっている遺族は別にして、一般的には)孤立しているために他の遺族が差別されていない様子を目にすることはほとんどない。そのことが逆に自分が受けるかもしれない差別への恐れを大きくし、「内なる差別」をいっそう強くしてしまうのかもしれない。

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