内なる差別

 

前に「内なる差別意識」について書かれた文を紹介した [i]。日本には数百万人の自死遺族がいるにもかかわらず[ii]自助グループの数は限られている。そのひとつの理由として、私は、遺族自身がもつ自死遺族へのマイナス・イメージがあるように思っていることを書いた。

 このようなことを遺族でも当事者ではない私が言っても説得力がないと思うので、ここで認知症当事者として社会的に活躍している丹野智文さんの文を(かなり長くなるが)紹介したい[iii]。以下の文で「認知症」を「自死」あるいは「遺族」と読み替えれば、おそらく読者も驚くような示唆を得られるのではないだろうか。(仮に私のほうで「遺族」「家族の自死」等の言葉を入れてみた。)

不安をかかえていると、周りから「大丈夫だよ」とか「頑張りなさい」と言われでも、「私の気持ちがお前らにわかるはずがないだろ、認知症(遺族)になったこともないのに」と、つい反発してしまいます。私もそうでした。でも、当事者と話をすると同感することが多く、同じ悩みをかかえていても元気でいることができるんだと知ったのです。(p. 11)

私も同じ当事者と出会うことで元気をいただき、前向きになることができたのです。それなら、いつか私も、不安で困っている認知症(遺族)の仲間がいたら助けることができるんじゃないかと思うようになりました。それにはまず自分の病気(家族の自死)をオープンにすることです。認知症の当事者やその家族(自死遺族)ならだれもが感じていると思いますが、認知症という病気のこと(家族の自死)について他人に話をするということは非常に勇気がいります。でも、考えてみると、なぜ認知症(自死)が言いづらい病気(こと)なのでしょうか。なぜ恥ずかしいと思うのでしょうか。. . . それは、認知症(自死)に偏見があるからだと思います。. . .  でも当事者にすれば、そういう偏見が根強くあるため、周りから何を言われるのだろうか、どう思われているのだろうかと考えてしまい、思ったことを行動に移そうとしても反射的に躊躇してしまうのです。. . . でも、私は思い切って病気(家族の自死)をオープンにしました。結果的にオープンにしても、偏見を感じることはほとんどないし、逆にサポートしてくれる人たちがたくさんできました。そのことから私はこう思ったのです。偏見は自分自身の中にあるのだ、と。(pp. 13-14)

丹野さんは、認知症に対する偏見が自分のなかにもあったことを同じ本のなかで何度も書いている。

偏見というのは、周りから言われたり行動で示されたりすることはありますが、それだけではなく、自分の中にあるんだと思うのです。自分の中に、認知症(自死)に対する偏見があるから、周りから何を言われるんだろうと恐れ、引きこもって何もしないようになるのです。. . .  私の中に偏見があれば、周りの人はどう思っているんだろうか、何か変なことを言われるんじゃないだろうかと、勝手な想像を膨らませて、偏見をさらに大きくしてしまうのです。(pp. 215-216)

さらに丹野さんは、海外で認知症当事者として活動している人から「偏見をなくすためには、一人ひとりが病気をオープンにすることです」(p. 281)と言われたという。自死や自死遺族についても同じことが言えるのではないだろうか。自死や自死遺族への偏見をなくすためには、遺族が遺族であることを社会的に明かす必要がある。「偏見があるから、遺族であることを言えない」と、多くの遺族の方々はおっしゃっるが、多くの遺族が、遺族であることを公に言っていかなければ、逆に偏見は無くならない。田中さんのように自死遺族であることを隠さず、社会的に活動されているかたはいらっしゃるが、まだ少数派であり、田中さんに続く人が次々と出ないかぎり、田中さんは「特別な遺族」となってしまい、偏見は維持されてしまうだろう。

 よく言われることだが、他人の意識は変えることは難しいが、自分の意識は変えられる。たとえ自分の意識を変えることも難しいとしても、他人の意識を変えることよりはずっとやさしいはずだ。だから遺族の自助グループには、社会の偏見を無くすことを目指すことも大切だが、それだけではなく、それよりもっと容易であるはずの目標、遺族自身の偏見の是正、すなわち「内なる差別意識」を問題にし、そして実際に自分自身の行動をも制限する「内なる差別」にも着目してほしいと思ったのである[iv]

 「そうは言っても、認知症と自死遺族の問題は違う」と思われるかもしれない。たしかに違うところもある。次の章[v]では、認知症との比較だけではなく、自死遺族の「内なる差別」の特徴などを考えてみたい。

1879

目次に戻る.



[i] 自死遺族への差別について

[ii]  Chen(2009)は、統計学的に日本全国の自死遺族の総数は300万人と算出している。

[iii]  丹野(2017).

[iv]  この章では「差別」「差別意識」「偏見」と似たような言葉が出てくるが、私は、以下のように整理している。まず「差別」とは、意識内にとどまらない具体的な行為や社会的仕組みをいう。「偏見」とは、具体的な行為ではなく、その行為を生み出す心理的な要因である。「社会学,社会心理学では制度的な行為としての差別と、心理的要因としての偏見の2つをセットにして考察して来た」(三橋, 1994, p. 338)からである。しかしながら「偏見」は、直接的に差別的なものであるとは限らない。たとえば、盲目の女性が香水の推薦者になってほしいと言われたという話がある。つまり視覚が無いために嗅覚が鋭いだろうという「偏見」がそこにある(Goffman, =1984, p. 243)。そこで差別に直接つながる偏見あるいは意識を、灘本(1999)の用語ではあるが、「差別意識」と呼んでいる。この表題を、灘本(1999)が用いた「内なる差別意識」とはせず、あえて「内なる差別」としたのは、その「差別意識」から実際に、自己の行動を制限してしまうという行為まで含めて論じたかったからである。

[v]  自死遺族の『内なる差別』につながるもの.

inserted by FC2 system