グリーフケアのありがちな間違い

 

遺族との最初の出会いで「悲嘆回復プロセス論が間違っていることを証明してほしい」と言われ、「それは私の専門ではありませんから」とお断りしたことは、すでに述べた[i]。しかし、遺族とのかかわりを続けていくなかで、いくつかの興味深い文献をみつけたので紹介しておきたい。

 ひとつは、あるジャーナリストの書いた「悲嘆についての真実:五段階モデルという作り話と喪失体験をめぐる新しい科学」[ii]という本である。それによると、遺族の心理状態に応用される悲嘆回復プロセスの5段階モデルは、全くの間違いであり、それはすでに多くの専門的な研究者の間では常識になっているのにもかかわらず、アメリカ社会では、政治家の真面目な演説やテレビ番組の司会者のジョークに使われるほど広く浸透している。「1970年代から1990年代にかけて、幾千の人々が(悲嘆ケアに)参入し、ヒーリング(癒やし)センターが作られ、病院や教会、そして葬儀会館でも個別のカウンセリングが行われ、遺族のサポートグループが開かれるようになった」[iii]。そこではカウンセラーたちが、上記の悲嘆回復プロセスを思い思いに変形し、いろいろな段階やら課題やらを作っているというiii

 上記の本は、ジャーナリストが書いたこともあって、悲嘆研究の世界的権威である研究者は、その本の書評を書き「悲嘆についての半分の真実」という皮肉なタイトルをつけた[iv]。なぜ半分の真実かというと、その本は「一般の人々は(悲嘆回復の)段階モデルについて真剣に考えているようだが、それと同じくらいに真剣に専門家もそのモデルについて考え続けている」という間違った前提で書かれているからだという。まわりくどい言い方になったが、要するに、悲嘆の専門家は、もう悲嘆回復の5段階モデルは役にたたないと捨ててしまっているのに、あたかもまだ多くの専門家が、そのモデルを使っているかのように書いているのが間違いだというのである[v]

 アメリカの専門家がどんなモデルを使っているかは、心理学者ではない私には関心外のことであるが、悲嘆回復の5段階モデルがもはや真剣に考えるに値しない理論だとされていることを知っただけでも、当時の私には大きな成果であり、驚きであった。なんといっても田中さんに「悲嘆回復プロセス論」(専門的にいえば、それはいろいろな意味をもつのかもしれないが、田中さんにとっても私にとっても、それは悲嘆回復の段階モデルと同一のものであった[vi])を否定してほしいと言われたとき、「心理学や精神医学で確固とした真実とされている理論を、専門外の私がどうして否定できるのか」と思ったほど、私もこの理論を堅く信じていたからである。

 私が、そう信じていたのは、私が学生時代に読んだ教科書にこの理論が正しいものとして紹介されていたからである。私は、そんないいかげんな教科書にたまたま出会った運が悪い学生だったのだろうか。いや、そうでもなさそうなのである。

 私が田中さんから「悲嘆回復プロセス論」についての疑問を聞かされて、まもなくのことであったが、悲嘆について多くの間違った情報が、精神看護の教科書に掲載されているという論文をみつけた(とはいえ、日本ではなく、アメリカの論文であるが)。それによると「悲嘆には段階あるいは予測できる過程があり、人はそれを経験すべきであり、また一般的にはそれを経験するのである」という「間違った説」が、精神看護の教科書の87%に掲載されていたという[vii]。また「『正常な』悲嘆なら、いつか終わるはずである」という「間違った説」も教科書の78%に書いてあるvi。悲嘆は人によって違うから何が「正常」かは一概にいえないし、悲嘆が一生続く場合も、それが病的だとは限らない。そういう意味で「正常な悲嘆なら必ず終わりを迎えるはずだ」という考えは間違っているのだが、それが大半の教科書に書いてあるわけだ[viii]。「悲しみからの回復はありえない」という遺族の声を紹介したが[ix]、これもまた十分にありえることで、だからといって、これが病的なことでは決して無いのである。

 「アメリカの看護の教科書だから間違っていて、日本では間違っていない」ということは考えにくいだろう。また、看護だけの領域に限らないはずである。教科書が間違っているのだから、真面目に教科書を読む学生だった人ほど間違ってしまうわけだ。本も大切だが、目の前の人の声を聴け、ということだろうか。

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[i]  「悲嘆回復プロセス論は間違っている」

[ii] Konigsberg(2011)

[iii] Konigsberg, 2011, p. 5.

[iv] Neimeyer, 2012, p. 390.

[v] Balk(2011, p. 674)も、この本が「大多数の学者や実践者がとっくの昔にそのモデルを捨ててしまったことについて何も述べていない」ことを指摘している。

[vi] 本書で「悲嘆回復プロセス論」というのは、専門家によれば、もう古いタイプのものだ。三輪(2010)1980年代後半から1990年代初頭にかけて、悲嘆をめぐる基本認識に大きな」変化が起きたとして「悲嘆プロセス研究は. . .2つの時期に大別して考える必要がある」(p. 18)という。長くなるが、この古いタイプ(三輪のいう「前半期」のプロセスモデル)の問題点が的確に示されていると思われるので引用したい。

前半期の悲嘆プロセスモデルにおいては、悲嘆プロセスとは、いくつかの段階を経たり、様々な課題を達成したりしながら、時間の経過とともに悲嘆の解決という最終ゴールに向かつて直線的に進んでいくプロセスであると考える。. . . こうしたプロセスを段階によって説明したものが段階モデル. . .と呼ばれるものである。これは、悲嘆の解決に至るまでには、いくつかの通過すべき内面的な段階があり、死別体験者はそうした各段階を時間の経過に伴って進んでいくという考え方である。. . . このように、前半期の悲嘆プロセスモデルでは. . . 時間の経過とともに悲嘆の解決という最終ゴールに向かつて進んでいくプロセスこそが悲嘆プロセスであるというのが共通した基本認識となっている。そして、ここでいう悲嘆の解決とは、故人への想いを断ち切ることである。すなわち、故人との絆を断ち切ることこそが悲嘆の解決であり、悲嘆プロセスのゴールであるとする考え方である。したがって、いつまでも故人への想いが断ち切れないとすれば、それは「病的な悲嘆」であり、そうした場合には、医学的介入が必要である. . . とされた。(pp. 18-19)

[vii] Holmanほか, 2010, p. 492.

[viii] しかし専門家の自死遺族への「ケアの最終目標は悲嘆を終結させることです」(張・北島, 2003, p. 46)とされていることは、「悲しみは病気ではない」で述べた。

[ix] 「悲しみからの回復はありえない」

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