わかちあいのルール6:自分の話をする

 

「言いっぱなし・聞きっぱなし」という自助グループでよく言われる原則に、不満をもつ人々もいることを前に述べた[i]。こちらが何を話しても、何の反応もない。うんとも、すんとも言ってくれなきゃ、壁に向かって話しているようなものじゃないかと苦情を言えば、「言いっぱなし・聞きっぱなし」なんだから、そんなものだと言われたとか。もしそうだとしたら、それは、わかちあいについての誤解なのである。

 では、グループで誰かの話を聞いたあと、何を言えばいいのかと悩む人もいる。「良かったです」「感動しました」とかいうと、言われた側からすれば、なんだか「上から目線」で言われた感じがするだろうか。「いや、私は、そうは思わない」と同意しなかったら、どちらが正しいのかという無益な議論になってしまう。かといって、黙ってしまったら、私の話を聞いても何も思わなかったのかと、がっかりされてしまうかもしれない。

 そういう場合は、自分の話、特に自分の体験を話せばいいというのが、自助グループの先人たちの知恵である。このあいだ読んだ本に、こう書いてあったとか、だれそれ先生は講演のなかでそう言っていたとか、先日のテレビ番組で聞いた話はどうだとか、そういう話はわかちあいではしない。どこまでも、自分の話をするのである。

 ただ自分の話、自分の体験といっても、どこそこのカフェのケーキはおいしかったとか、そういう自分の体験を話すわけではない。自助グループのメンバーが互いに仲良くなれば、そういう雑談も出てくるだろうが、それは、わかちあいの前か後にすればいいのであって、わかちあいでは、かえって良くない[ii]。愛する人を亡くしたばかりで、もう目の前が真っ暗になっている人も、わかちあいには加わっている。亡くして何年もたっているのに、突然、再び深い悲しみにつつまれて生きる望みを失いかけている人もいるかもしれない。そんな人の前で、カフェのケーキの話は、腹立たしい失望感を与えてしまう。「こんなところに来るんじゃなかった」と後悔させ、「遺族といっても、私とは全く違う」と冷めた気持ちにさせてしまう。「いや、みんな笑っていたし、、、」と思っても、それは単なる気遣いで、周りに合わせているだけの表面的な笑顔かもしれない。

 愛する人を亡くして、家に閉じこもる生活が続いている。このままではいけない、なんとかしなければいけないとは思うが、どうしていいのかわからない。誰かと話していたら、なんにも気持ちがないのに、涙が止まらなくなる。クリーニング店で店員さんと顔を合わせるだけでも泣いてしまいそうで、それでは相手もびっくりしてしまうのではと思うし、そう思うだけで人と会うのが怖くなる。そんな話を聞いたとき、どう答えたらいいか。

 その言葉にたちまち胸を打たれ、天井を向いて、あふれる涙をこらえる。わかちあいに集まった人のなかに、そんな姿があれば、話した人は、もう何の言葉もかえってこなくても、わかってくれたという実感につつまれて、それで、ひとまずは安堵するかもしれない。是が非でも、何か言わなくてはと思わないほうがいいだろう。

 「すこしでも外出の練習をすべきですよ」とか、「精神科に行って、薬をもらうことを勧めます」とか、「しっかりしなくてはダメですよ。亡くなった人も、そんなあなたの姿を見たら、悲しむはず」とか、そういうアドバイスはしない。少なくとも、わかちあいのなかでは、そんな助言はしない。

 専門家が開いているグループでは、遺族と専門家という二つのタイプの人が集まっているから、専門家との対比で遺族がみな同じように見える。ボランティアが運営するグループでも同じだ。遺族であるか、遺族ではないか、その違いしかないから、遺族がみんな似たような状況にあるように思える。だから「遺族一般」に対してのアドバイスが思いうかぶ。

 しかし、遺族の自助グループでは遺族しか集まっていないから、逆に遺族もさまざまであることが明らかになる。人それぞれ事情も個性も違うから、他人がアドバイスできるようなものではないということが、誰にでもわかる。たとえば、女性と男性、高齢者と若者がまじっているグループでは、若い女性はみな同じように見えるかもしれないが、若い女性だけが集まれば、まったくみんな違う個性をもっていることがわかる。そこでは「若い女性は、、、」と一般論で言うことができなくなるのと同じことなのである。

 とすれば、さきほどの家に閉じこもっているという人には何を言えばいいという一般論はどこにもない。だから、聴いた人は、それぞれが聴いた話につながる自分の体験を話せばよいのである。たとえば、同じように家からほとんど外に出られなかった人は、自分は、家でどうすごしていたのかを話すことができるだろう。その人が3年もそんな生活をしていたことを知ったら、さっきの人も驚くかもしれない。「1年もこんな生活が続いたら、きっと私は変になってしまうと思っていたけど、そういうわけでもないみたいだ」と、3年ひきこもっていたという人の穏やかな笑顔をみて、安心するかもしれない。あるいは、亡くなった人を思い出すのが辛くて、朝から晩まで働きづめになり、結局、過労で身体を壊してしまったという人の話は、亡くなった人としっかり向かい合うことの大切さを教えてくれるかもしれない。それによって、無為のままに部屋にいたわけではなく、亡き人との対話を重ねていた自分に気づくことができるかもしれない。

 遺族がさまざまであるかぎり、遺族の体験もさまざまである。それぞれの遺族は、自分と似たような体験をしている人にも出会うが、違った体験をしている人にも出会う。それは未来の自分や、過去の自分と重なる部分もあるだろう。あのとき、もしも、こういう選択をしていれば、こうなっただろうという仮定の世界の自分にも出会うことだろう。

 遺族の自助グループには、そのような多様性の豊かさがある。わかちあいは、そんな豊かさを学ぶ場でもあるのである。

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[i] わかちあいのルール5:静かに傾聴する

[ii] わかちあいのルール7:「仲良しクラブ」にならない

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