悲しみは病気ではない

 

「病的な悲嘆」という言葉がある。それは「正常な悲嘆」と比べて長く続くのが特徴だという。では、悲嘆は、どれくらい続くのが「正常」かというと「6か月から1年」と専門職向けの論文にあった[i]。たとえば、自死遺族支援者への講義の一節には次のような言葉がある。

教科書的には、普通の死別による悲嘆反応は、半年から1年半くらいで回復するといわれています。けれども自死遺族の場合はそうはいかない。5年経っても10年経っても立ち直れないケースが少なくないのです。. . . やはり自死は特殊な体験なんだということを、きちんと理解して差し上げなくてはいけない。[ii] (下線は岡による)

自死は「特殊な体験」で悲嘆反応が5年も10年も続くことがあり、遺族は「立ち直れない」。それは「普通」ではない。異常なのだという。それを「きちんと理解して差し上げなくてはいけない」と、やや不自然なほどの敬語(謙譲語)を使われても、どこか納得できないところが残る。

 「遺族として生きる」「悲しみとともに生きる」という生き方をしようと自助グループに集っても、専門家と自称する人々から「それは異常だ」「特殊だ」とされてしまうのが、自死遺族の現状なのかもしれない。何よりも、以下の引用が示すように、遺族の「悲嘆を終結させること」を目標として専門家のケアは行われるからである。

まず、ケアの最終目標は悲嘆を終結させることです。悲嘆の終結とは、故人がもはや存在しない実生活のなかで、新しいアイデンティティを確立して生きていくことです。これは故人のことを忘れ去るという意味ではありません。折りに触れ故人をしのぶことが続いても、死別後の生活に適応できるようになればいいのです。[iii](下線は岡による)

専門家にとっては「故人はもはや存在しない」のだが、遺族には「実生活」においても故人は存在している[iv]。ここの認識が正反対であるために「遺族として生きる」人には非常に腹立たしい発言に聞こえるだろう。

 そしてこの「悲嘆を終結させる」ことと関連して「喪の作業が遺族のメンタルヘルスにとって非常に重要である」[v]と強調されるのだが、この「喪の作業」は、愛する人の死に向かい合う「ひとつの選択肢」にすぎないのに、あたかも、それだけが遺族が取り組むべき課題であるかのように、専門家と自称する人々が口をそろえて唱えることが遺族には腹立たしい。自死遺族である明さんは、これについて以下のように言う。

「喪の作業」を経ることによって最終的に新しいアイデンティティを獲得して、人生を歩み始めるといことが言われております。その、最終的なアイデンティティを獲得するということに、私は非常に抵抗感があります。私の感情としては、そういった自責の念や悲嘆を抱えつつ、そして、自死者との絆を断ち切らず、絆を永続的に保ったまま、淡々と生きて余生を送ることができないかなと思っています。[vi]

アイデンティティとは、自分が何者であるかとすることだ。専門家は「故人は存在しないのだから、新しい何者かになれ」と言っている。それに対して自助グループに集う自死遺族は「亡き人は今もいる。だから私は遺族として生きる」と言っている。 

「亡き人が、この世にいるかいないか」は、「神がいるかいないか」という神学論争のようなもので、結論は出ないものだ。亡き人は、たとえ目には見えず声もたてないけれども「いる」人には「いる」。そして「いる」ことを信じて生きるのが、遺族なのである。

遺族に対して「喪の作業」を求めることは、遺族であることを止めよということに等しい。「喪の作業」が無駄だとか、間違っているというのではない。それは単に一つの選択肢にすぎないということだ。「科学」の名を用いて、また専門家と呼ばれる立場を利用して、その一つにすぎない選択肢を、絶対唯一の選ぶべき道として遺族に押しつけてはいけないのである。

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[i] 張・津川・李・, 2002, p. 27.

[ii] 自死遺族ケア団体全国ット(2008), p. 35.

[iii] 張・北島(2003), pp. 46-47.

[iv] 「亡き人はここにいる」を参照

[v] 張・北島(2003), p. 45.

[vi] ほか(2010), p 62.

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