亡き人はそこにいる

 

娘を自死で亡くした夫妻の自宅を訪れたことがある。家に入れば、その若い娘さんの写真があちらこちらにあった。夫妻とテーブルをはさんで向かい合ったときも、娘さんの写真はそのテーブルの上にあった。私は夫妻の話を聴くために訪れたのだが、その家にはもう一人の人がいることにすぐ気がついた。つまり、亡くなった娘さんがそこにいたのである。夫妻ふたりの間に、表情も変わらない写真の姿で、彼女はそこにいた。会話は、その夫妻と私の人のあいだで言葉がかわされるという形で進んだのだが、私には黙ってそれを聞いる娘さんの存在を感じた。いや、そんなふうにいえば霊感めいた話に聞こえるだろうが、もっと正確にいえば、夫妻のなかにしっかりと娘さんは根をおろしていて、夫妻の言葉の一つ一つにその存在を伝えるものがあったということだ。

 「亡くなった人は、もうこの世にはいない。」これが世間の常識である。私もそう思っていたが、遺族の家のなかでは必ずしもそうではない。遺族の生活には、亡くなった人は、いまでもそこにいる。死んではいるが、遺族にいまでも語りかけ、働きかける力になっている。「亡くなったのにそこにいる」。それが遺族の感覚である。

 遺族の心理的ケアをしようとする人たちが、ときに自死遺族から拒絶されてしまうのは、その感覚が違うからではないかと思う。遺族にとって亡くなった人は、まだ「そこにいる」。それに対して遺族ではない人は、ごく常識的に「死者はこの世にはいない」と考える。この「いる」「いない」の感覚の違いは、途方もなく大きい。[i]

 もはや「いない」人のことを嘆くのは非合理的である。時間の無駄であり、無意味な行動である。「気持ちはわかるが、前に進みなさい」というアドバイスがあっても無理はない。なぜなら、亡くなった人は、もういない。存在しない。あとには「悲しみ」という感情あるいは喪失感しかない。だからその感情をどうにかケアしようという発想につながる。「悲しみからの回復」が目標として出てくるのは、亡くなった人は、もはや無になったという前提があるからだ。

 しかし、遺族にとっては、愛する家族は亡くなってもまだここにいる。ここにいるのだから、忘れられるはずがない。すぐそばにいるのに声が聴けず、触れることもできない。抱きしめることもできない。だから悲しい。悲しいのは、そこに愛する者がいるのに、生きていたころのように自由に話ができないからだ。遺族にとって、この悲しみを無くすことは、自分のそばにいる亡き人を忘れることであり、無視することであり、それだからこそそれはできないと思うのだろう。

 ある遺族は「私は遺族というより、家族です」と言う。「遺族」という言葉は「遺された者」であり、亡き人との関係が失われたように響くから嫌なのだそうだ。また 晩御飯をつくっていると、まったく香りのないものができてしまい、「なんだ、お行儀がわるいね、(待つことができなくて、香りを)食べちゃったのかい」と、一人笑いながら、台所のどこかで立っていて、いたずらっぽく笑っているはずの自死した息子に呼びかける女性もいる。

 遺族とは、そういう人だ。逆にいえば、亡き人がそこにいると感じる人を、我々は遺族と呼ぶ。そういう遺族が、自死遺族の自助グループに集う。一方で、家族が自死して「亡き人はもういない」と思う人もいる。そのような人は自らを遺族とはあえて呼ばないだろう。どちらが正しいかは問題ではない。家族の死をどう受けとめるかという考え方の違いなのである。

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[i] この死者が「いる」という感覚は、日本の仏教的なものからくるのかもしれない。自死遺族のネット掲示板を言語学的に研究したオーバーヴィンクラーは次のような興味深い考察を行っている。

ドイツ人は掲示板を、現実にウェブ上にいる同じ苦しみを分かち合うことのできる他者を見つけてコミュニケートする場として利用し、悲しみを乗り越える方法を模索している . . . . . . それに対し、日本人は掲示板をウェブ上の他者だけではなく、内的かつ私的な「もう会うことのできない死者」に語りかける場としても利用している。. . .「寂しかったよね」「辛かったね」など、亡くなった人物の心情を代弁し、語りかける形式の用例が見られる特徴があり、これらの感情語彙は書き手である遺族自身の心情ではなく遺族が想像した死者のものである。彼らは、相手の心情を慮り語りかけるという本来コミュニケートできる相手と行うはずの行為を、コミュニケートできなくなった相手(死者)に対して擬似的に行っているのである。インターネット上の掲示板とは、読み手が存在するにも関わらず具体的に誰を相手に語りかけているかが目に見えない場である。そのため、死者に直接語りかけるかのような投稿もさして不自然ではなく、自分の中で死者に語りかけることによって悲しみと向き合うという内的な感情表出と、他者に対してその感情を開示し共有するという外的な感情表出を両立させることのできる特殊な場となっているのではないだろうか。Oberwinkler (2015, pp. 40-41).

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