はじめに:語りかけるのではなく、夜空に向かって話すように

 

ある方から「自死遺族の本を書いてみませんか」と声をかけていただいたのは2011年の秋のこと、もう10年以上も前だったと思う。周りの遺族たちの声にも励まされ、書きたいと思ったものの、なかなか書けない。

 最初は遺族のかたと共著で書くつもりだった。私には想像もつかない体験をしていらっしゃる遺族の心に届く本を書くなら、共著しかないと考えていた。しかし、それができなかった。「私たち」と書き出せないのである。

 遺族は「私には想像もつかない体験をしていらっしゃる」と思うからこそ共著にしたかったのだが、その、まさに同じ理由から「私たち」という主語を私自身が使えなかった。「想像もつかない体験」であっても共著者となれる程度の理解はもちたいと思い、男親で一人娘を亡くされたかたのお話しを詳しく聴かせてもらったが、それにも私は圧倒されるだけだった。たとえていえば、摩天楼の窓際に立ち、足がすくむような状態だった。「私たち」と言ったとたん思考停止になってしまうような感覚なのである。

 それでも何度も、自死遺族の市民運動をされている田中幸子さんに励まされ、また自助グループの運動であってもその推進のためには私のような第三者の応援も求められているのだと思い、本の執筆を完全に諦めることはできなかった。

 そんなある日のこと、田中さんが、ひとりのお母さんのことを話してくれた。二人の子どもがいたが、ひとりが他の一人の命を奪ったあと自死してしまったそうだ。そのお母さんに会っても「もう言葉がない。抱きしめるしかないです」と言う。

 「言葉がない」。まさに、それだと気がついた。私は、これまで遺族に語りかける本を書きたいと思っていた。しかし、書けなかった。それは私には語りかける「言葉がない」からだった。自分自身が遺族であり、多くの自死遺族に会い、支援している田中さんでさえ「言葉がない」体験をされている。まして自死遺族でもない私に遺族に語りかける「言葉」があるはずがない。

 「遺族に語りかけよう」という私の姿勢そのものに無理があった。そんなことはできるはずがない。語りかけるのは止めようと思った。では「語りかけない」というのなら、どんな本を書けばいいのだろう。

 そこで思い出したのは、一人の自死遺族のかたのことだ。彼は、私のエッセイ集 [i]を寝る前にひとつずつ読んでくださっているという。「短いので、読みやすい」「長いものは、読めないのですよ」とおっしゃっていた。遺族のかたで「長いものは読めない」という方は多いという印象がある。おそらく、その悲しみのためだろう。

 ならば、あのエッセイ集のように短い、見開き何ページかで終わるものを集めた本を書いてみようと思った。遺族のかたにむけて直接語りかけるのではない。私のほうが、独りでつぶやいているような本である。思い出したときに手にとって読んでもらえて5分もかからずに読めてしまうようなものを100ばかり書いてみよう。

 そういう気持ちで、この本を自死遺族のかたがた、とくに自助グループに集う、あるいは集いたいと願う遺族のかたに向けて書くことにした。夜空に向かって、ひとりで話しているような本にしたい。眠れない遺族が、それをふと耳にして、壁向こうでしばらく聴いてくださり、疲れたらまた眠るなり、そこを離れるなりしていただく。そんな本になれば良いと願っている。

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[i]  (1991, 2010a)

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