「池のなかの島

 

前に書いた「フリーライダー」の続きである。私は、以前、この問題について以下のように書いた。ここでいう「当事者組織」とは、自助グループと同じと考えていただいていい。

当事者組織では、しばしば少数の活動的なリーダーだけが制度改革に腐心し、個々人の問題解決につながる情報を収集かつ提供し、集会の準備等に労力を費やしている。その一方で、その労力の結果を享受するだけの受身的構成員が多数いる。その様子は「湖に浮かぶ孤島」のような形になる。すなわち、組織の中核に活動的なリーダーがいるが、その周囲にはそれを支える活動的なフォロワー(随従者)がいない。そして、組織の周辺部には多数の傍観者的な構成員が集まっているのである。[i]

 自死遺族の自助グループは、他の障害者団体や患者団体と比べて小規模のものが多いので、「湖に浮かぶ孤島」というより「池のなかの島」と呼んだほうが適切かもしれない。湖では向こう岸に立っている人の姿は見えないが、池なら、その表情まで読めるほどに近い。そして自助グループの世話人たちは、しばしば、そんな「池のなかの島」に立ちすくむ状況にある。

 「池のなかの島」というイメージは、さらに次の3つの状況を暗示している。第1に、池のなかの島は「高い山」ではない。その高さは、池の周囲と変わらない。つまり、組織やグループの「トップ」というと(「トップ」は頂上を意味するから)、「高い」のが普通である。会社の社長は、平社員よりもはるか「上」にいる。しかし「池のなかの島」は、高いわけではないので、そこに立つ人は「上」にいるわけではない。言い換えれば、自助グループに「会長」と呼ばれる人がいても(「世話人」と呼ばれていても)会員の「上」にいるわけではない。

 それを「平等主義」と呼べば、聞こえはいいだろうが、逆にいえば、自助グループの「会長」や「世話人」には、メンバーを動かす力が与えられていない。グループの活動のために、それこそ山のように雑用をかかえこんでいても、その処理を他の人に命じる権限がない。その結果、リーダーは、すべてを自分で行わなければならず、オーバーワークとなり疲れて果ててしまう。

 第2に「池のなかの島」では、リーダーとメンバーが、きれいに分かれてしまっていて、その中間に立つ人がいない。たとえば、ふつうの会社なら、社長の次に副社長がいて、部長がいて、課長がいてと、なだらかにリーダーシップの分担が行われている。大きな会社ではなくても、たとえば、ボランティアグループでも、リーダーがいて、その下にサブ・リーダーがいて、その下にベテランのメンバー、中堅のメンバーがいて、最後に新しいメンバーがつく。うまくいっている自助グループも同じような構造をもっている。ところが、たいていの小さな自助グループは、このような「なだらかな構造」がない。その構成員は、世話人か、一般のメンバーか、そのどちらかに二分されてしまう。

 どうして、そうなってしまうのか。それは、一つには自助グループに何年も通っている人が、いつまでたっても世話人の役割を分担しようとしないからである。新人から中堅へ、ベテランへ、そしてサブのリーダーへというリーダーシップの階段が示されていない。自死遺族でいえば、自分の悲しみに向かい合う「新人」の段階が終われば、他の遺族の悲しみにまで目をくばる「中堅」になっても良さそうなものだが、いつまでいても他の遺族に対する態度は「新人」のときと変わらず、考えるのは自分の悲しみばかりで、ある程度、自分の状況が落ち着けば、グループを離れていく。そんな遺族が多いと聞いている[ii]

 第3に「池のなかの島」には逃げ場がない。「少し疲れたので、休ませてほしい」と、世話人が「島」を離れたら、そこはたちまち「無人島」となる。島の周囲の人々は、ただ呆然と誰もいなくなった島を見つめるばかりで、それで自助グループは休止もしくは終了となる。そんなときには誰かが代わりに島に行けば良いと思うのだが、池の水を飛び越えてでも、そうしたいという人は稀だ。「池のなかの島」のような自助グループは、このように突然あっけなく消えていくのである。

 では、どうすれば、この「池のなかの島」という形を乗り越えられるのだろう。おそらくは2つの方法がある。ひとつは、島と池の周囲に「橋」をかけることだ。池を埋めてしまうのが一番よいのだろうが、それには時間と労力がかかりすぎる。まずは、島と池の周囲との「中間の場所」を用意する。世話人は、その仕事の一部を他のメンバーに担当してもらいたいと希望するが、それは、しばしばメンバーにとっては重すぎる負担になる。あるいは、そのメンバーが委ねられた仕事を自分の考えで進めてしまうと、いまの世話人との間に亀裂が生じてしまうかもしれない。だからこそ、まずは「中間の場所」が大事になる。周辺の人々のように、ただ傍観者でいるわけではない。しかし、世話人に代わるような大きな働きをするわけでもない。曖昧なポジションであるが、世話人と傍観者をつなぐ重要な役割が、そこにあるのである。

 第2の方法としては、池の周囲の傍観者どうしの間につながりを作っていく。ここでいう「傍観者」は、自助グループの運営については何もしない「傍観者」だが、わかちあいには参加している。したがって「傍観者」どうしの最低限の人間関係はすでにできている。しかし、会の仕事を分担できるほどの関係にはなっていないかもしれない。たとえば、グループでイベントを開催するとき、その準備を複数人で担当することになったら、少なくとも携帯番号など連絡先を交換することが必要だ。それさえも拒否する人がいたら、メンバー間の信頼関係が不十分なのである。自助グループは、特定少数の人々の献身的な労力によって維持されるべきものではなく、わかちあいに参加するすべての人の自発的な協力によって成立するものだということを、ふだんから繰り返し、メンバーには伝えていくことが大切だろう。

 

2461

目次に戻る

 



[i]  (2006, p. 254).

[ii]  自死遺族の自助グループだけではなく、たとえば、私がかつて調査した難病児親の会でも、状況は似ていた。自分の家庭の状況が落ち着けば、親の会を離れていく人が多いということだった。しかし皆が皆、そうであれば、自助グループは存続できない。

inserted by FC2 system