仲間意識と会員意識

 

人は似た状況にある者どうし集まることが多い。人々の間になんらかの共通点があるから、グループは成立するのだとも言える。子どもは子どもどうし、若者は若者どうしで集まる。どこの社会でも趣味が同じであったり、同じことを大事にしている者は、互いに理解しやすく、自分と近い存在のように思えるものだ。それを、いまここでは「仲間意識」と呼んでおこう。

 自助グループは、この「仲間意識」を基盤につくられた団体だと言える。ただし、「仲間意識」だけでは、自助グループは成立しない。これを良く示しているのが、ある難病児親の会のリーダーが、私に語ってくれた次のようなエピソードだ。

ずっと同じ病気の人と話してみたかった。みんな(この病気に対して)どうしているのか、どうやって対処しているのか、それを知りたかった。お医者さんや看護師さんは、病気のことは知っていても、その病気の子どもといっしょに暮らしたことがない。病院ではなくて、ふつうの家で、学校で、どうやって子どもが生きていて、どうやって育っているのか、医者や看護師は知らないんですよ。親しかわからない。だから親と話したかった。それで(専門医から)紹介されて、初めて母親どうし3人で会うことができて(遠くから来ているから)宿を取って一晩中、涙、涙で語り明かしたんですよ。

それで最後に私が「じゃあ、3人で親の会を作りましょう!」と提案したら、他の2人が、急に黙ってしまって、「これで3人出会えたんだから、もうこれで十分。会なんて必要ない。会を作ったら負担が増えるばかり。病気の子どもの子育てだけでもたいへんなのに、これ以上、面倒なことはかかえたくない」というのです。「でも、出会えていない患者家族が、まだ全国にいっぱいいるのだから(親の会は)必要だよ」と言っても、耳を貸してくれない。ああ、これは何なんだと思いました。

つまり非常に稀な同じ病気の子どもをもつ3人の母親たちは、とても強い「仲間意識」をもった。この3人は同じ体験をしていて、互いの苦労や辛さを理解しあえると感じた。しかし、ただ1人の人を除いては、自助グループを結成したいとは思わなかったのである。

 「仲間意識」をもち、同じ状況にある人たちと体験や思いをわかちあいたい。そういう気持ちを強く持ちながらも、自助グループを始めることや、そのグループの活動のために何かを自分で進んでやりたい、グループのために貢献したいという気持ちはない。そういう当事者は一定数いる。いや、自助グループに集う人の大半は、そういう人たちかもしれない。それを、ここでは「仲間意識」はあっても、「会員意識」を持たない人たちと呼んでおこう。

 上の例に示したように、同じ状況にある人たちと思いをわかちあいたいという「仲間意識」と、自助グループのために何かしたいという「会員意識」は、全く違う。しかし、自助グループに集い、「仲間」に出会えたことを喜んでいる姿だけをみると、「仲間意識」と「会員意識」の区別は容易ではない[i]。逆に言えば、この二つの「意識」は混同されがちなのである。これを混同してしまうから、自助グループを通して同じ当事者と出会えて良かったと言いながらも、グループの活動に何も貢献しない人々の気持ちが理解できない。

 自助グループがあってこそ、偶然の機会に頼らなくても仲間に会える。仲間とのつながりの基盤には、グループがある。それを理解すれば、「仲間意識」は自然に「会員意識」につながっていくのだが、実際には、そうならないことが多い。

 その理由としては、(リーダーではない)一般の会員が、組織のことを何も知らないことが考えられる。あるいは、会を運営している人は、それによって行政か、あるいはどこかの団体から金銭的な報酬を受け取っている、そうでなければ、何か秘密の「役得」があるにちがいないという誤解が一般の会員の間にあったりする。だから、特定の人たちだけが、グループに集まった人の世話をするのは当たり前で、他の人は、わかちあいのときに出されたお茶を「お客さま」のように飲んでいても、そこに何も問題を感じない。

 繰り返して言えば、自助グループに集う人々は、すでに「仲間意識」をもっている。自助グループをいっそう発展させるには、その人々に「会員意識」をもってもらう必要がある。そのためには、自助グループには、体験のわかちあいだけではなく、自助グループの運営等、組織の問題も語り合う時間も必要なのである。

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[i] この「仲間意識」(personal fellowship)と「会員意識」(organizational membership)の違いについては、Oka(2003a, pp. 307-308)。これを説明した講演記録としては(2007a, 2007b)がある。

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