答えのない問いに耐える

 

遺族のかたと話していたら、「どうして自分から死を選んでしまったのか、どうしてもわからない」とおっしゃって、ハンドバッグのなかから宝物のように、そっと取り出したのは、無くなった一人息子さんの一枚の写真だった。まるで、どこかの映画スターのような青年だった。思わず「きれいなかたですね」と言いそうになりながらも、黙って受け取り、私はしばらく見つめていた。健康で、学校の成績も良く、いいところに就職も決まっていた。友達にも恵まれていたようで、学校でも職場でも、いじめなどということは聞いたことがないと青年の母はいう。早朝、家族に何かひとこと言って、散歩をするように出ていったそうだ。すぐ戻ってくると思っていたら、いつまでも帰ってこない。どこかで道草でもしているのかしらと待ちくたびれていたら、突然、病院から電話があった。すぐに来るようにということだった。タクシーに飛び乗り、行ってみたら、そこには、もう二度と目覚めることがない愛するひとり子の姿があった。

 「どうしてなんでしょうね」「何があったんでしょうね」「ちょっと朝ご飯の前に、そこらへんを回ってくるという感じだったんですよ」「私には何にも言わなかった、いままでいろんなことを話してくれる優しい子だったんですよ」と、写真をみつめる私のそばで、ずっと独り言のように何度も繰り返している。

 そして、またしばらく沈黙が続いていたが、ふと思い出したように、私の片手の上の写真をのぞき込むようにしてつぶやいた。「亡くなる何週間か前に、この子は、ひとりで部屋にいて妙なことをしていたんですよ。私が驚いて『あんた、何してんだい』って言ったら、この子は、ちょっと恥ずかしそうにして黙っていました。」私が、そこで何を聞いたかは、プライベートなことなので、ここでは書かない。ただ似たような話を私は何度か(おそらく仕事がら)遺族以外から人から聞いていた。家族や友人、学校や職場、心身の健康や経済状態、何もかも恵まれていた若い青年が、なぜ死を選んだのか、それが突然わかったような気がした。青年は、きっと誰にも言えない秘密をもっていたのだ。母は、それをうすうす知っていたのだろうか。

 「それは、こういうことだったかもしれませんね」と、私は自分の推測について話してみたくなったが、すぐに、それが自分のわずかばかりの知識をひけらかす愚劣な言葉であるように思えて、黙ってうなづき、写真を返した。「なぜ、自分を残して死んだのか」という問いを、もう何千回、何万回、何十万回と、この人は毎日のように繰り返してきたのである。ありとあらゆる可能性、考えられうること全てを彼女は吟味してきたにちがいない。私がふと思い付いたことなどは、もうずっと以前から気付いているはずなのである。

 残酷なのは、どんなに考えても正解がないということである。本当の答えは、亡くなった人しか知らない。亡くなった人しか知らないということは、もはやこの世の誰にもわからないということだ。さきほどのエピソードだって、彼の自死とは全く関係がないかもしれない。もしかしたら、亡くなった人本人さえも、自分がどうして自死を選んだのかわからなかったかもしれない。

 答えが無い問いは、珍しくはない。たとえば、この宇宙は未来永劫つづくのかという問いには、おそらく答えが無い。少子高齢化が続く日本は百年後どうなっているのか。これも誰にもわからないから、答えが無い。しかし、そういった答えがなくても私たちは一向に気にしない。一部の学者や研究者に任せておけばいい。しかし「愛する人は、なぜ自死を選んだのか」という問いは、それとは違って切実なものとして遺族から離れない。答えのない問いに執拗(しつよう)につきまとわれることは、どういう思いにつながるのか、遺族ではない私には想像を超えるものがある。

 ただ、ここに、もしかしたら少し力になる言葉がある。「ネガティブ・ケイパビリティ」だ。「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」と定義されている[i]。平たくいえば「答えのない問いに耐える力」である。作家は、この能力に長けた偉人としてシェークスピアを挙げる[ii]。シェークスピアが描くのは、勧善懲悪といった単純な物語ではない。ロミオとジュリエット、オセロと、主人公が次々と自死する筋書きから、読者が人生の教訓を得るというものでもない。しかし人の人生そのものが答えの無い問いなのだから、答えの無い作品こそが、私たちの人生に寄り添い、生きる力を与えてくれるのである。

 そう考えれば、愛する人がなぜ自死を選んだのかという答えの無い問いを問い続けることによって、遺族は、よりいっそう深く、亡き人との対話を続けられるのかもしれない。ただし、たった一人で答えもないのに、ひたすら問い続けることには気力がいる。だからこそ、自死遺族の自助グループが求められるのだろう。そこでは、亡き人を思う人々が集い、ともにそれぞれ亡くした人と対話をする。互いに、亡くなった人とは会ったこともないはずだが、何度も何度も思いをわかちあうことによって、亡き人の影が、ぼんやりとではあるが、集まりのなかに現れる。鉛筆で繰り返されるタッチが産み出す無数の細く長い線が重なり、亡き人の姿が写真のように浮かびあがる。いまにも動きだしそうな口もとから、その優しい声が聞こえてくるようだ。

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[i] 帚木, 2017, p. 3.

[ii] 帚木, 2017, p. 151.

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