「悲しみからの回復はありえない」

 

なぜ「悲しみは段階を経て癒されていく」という考えに、自死遺族たちはそこまで否定的なのだろう[i]。私自身は祖父母との関係が疎遠であったこともあり、当時は身近に人の死もなく生きてきた。家族の死も自死も、私の想像の域を超えたところにあった。

 「悲しみは私の身体の一部なんです」と、田中さんはおっしゃる。身体の一部なら、それは無くなることはありえない。「悲しみからの回復」という言葉がよくあるが、手や足が無くなることを「回復」とは言わないだろう。それが「脳」であるのなら、それが無くなれば、生きていることもできない。悲しみが「身体の一部」であるとは、それが自分にとって無くなることはありえないものだという意味だと思う。

 田中さんといっしょに初めて私の研究室を訪れてくれた男性は「回復なんてありえないでしょう?」と語気を強めて言われる。「悲しみからの回復」を謳うグリーフケアを心底、嫌っている様子だった。ご自身は、たった一人の娘を自死で喪っている。彼は私よりも一つ年上だけなので、当時は五〇歳ぐらいだっただろうか。「回復があるとすれば、それは私の娘が生き返ることですよ」とおっしゃる。

 「回復」は、文字通りとれば、元に戻ることだ。「元気回復」とは元気が戻ること、「健康回復」とは健康が戻ることをいう。「悲しみからの回復」とは、悲しみから立ち直ることをいうのだろうが、そこには亡くなった人の存在が考えられていない。「悲しみ」という気持ちの問題だけに焦点があてられている。「悲しみ」がある理由やその由来などは、その背景として切り離されている。

 自死遺族の悲しみは、家族を喪った悲しみであり、喪った家族と密接に結びついている。何らかの気分のような悲しみが、宙にぶらりと浮かんでいるわけではない。つまり悲しみが、悲しみという感情だけであるわけではない。いつも亡くなった家族と結びついている。だからこそ「悲しみからの回復」はないし、もしもあるとすれば、それは亡くなった家族が黄泉(よみ)の国から生き返ることが必要なのである。また「悲しみは私の身体の一部なのです」という遺族の言葉は、すなわち「亡くなった家族は、私の一部でした」という言葉を言い換えたものだろう。

 「死者が生き返ることはない」という残酷な、しかし疑うことが許されない現実から、「悲しみからの回復はありえない」という言葉が遺族から出ている。感情についての心理学的な法則を言っているわけではない。亡くなった人の存在と悲しみは、ひとつに結びついている。だから「死者のよみがえりは無い」というなかで、もし「悲しみからの回復」があるとすれば、それは、かけがいのない死者との再びの別離を意味する。突然の自死によって家族はかけがいのない人を喪い、遺族となった。そして、そのかけがいのない人との関係そのものが悲しみでもあるのだから、その悲しみからの回復とは、亡くなった人と、さらなる距離をとることになってしまう。

 「悲しみからの回復はありえない」という遺族の言葉は、望みを捨てた自暴自棄から発したものと誤解されがちだろうが、そうではなく「愛する家族とのつながりを捨てることはありえない」という力強い声なのであり、的外れの同情への苛立ちでもある。それは心理療法家の助けを求める言葉などでは決してなく、愛する家族を誇りに思い、その存在を心の中心に置いたまま、遺族として社会のなかで生きていこうとする決意の反映でもあるのである。

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[i] 鷹田(2015)によると、英国においては悲嘆に関するこのような考え方への批判として、遺族の自助グループの存在が考えられていた。「80年代後半以降、特定の悲しみ方以外を病理的なものと位置づける従来の悲嘆モデルに対する批判が高まり、代わって、死別体験者それぞれの多様な悲しみ方を尊重する立場が広範な支持を集めていった。. . . 相互支援組織は多様な悲嘆を抱えた死別体験者の重要な受け皿となっている。」(p. 34)

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