遺族として生きる

 

父の葬儀のとき、私は遺族だった。「ご遺族のかたは」と呼ばれて立ち上がり、遺族の席にすわった。喪服を着て喪主として亡き父のことを思い、出棺ときは涙を流した。その後、慶弔休暇をとり、遺族として父の納骨のことを考えていた。しかし、その休暇のあとは、また日常に戻った。葬儀のときに使った父の写真は、しばらくは机の上においていたが、いつのまにか書類の下に埋もれていた。私が「遺族」であった時間は短かった。私は遺族であったが、もはや遺族ではない。私が遺族と呼ばれる日は、しばらくはないだろうし、私を遺族として見る人もいないだろう。

 私が出会った遺族は違う。葬儀があった日から幾年たっても遺族であり続けている。毎日のように亡くなった人のことを思い、悲しみとともに生きている。悲しみは愛しさであり、愛しいと思うかぎり(すなわち自分自身が生きているかぎり)その悲しさは続くと遺族は感じている。

 誰も遺族になりたいとは思わない。また自らの意思で遺族になる人もいない。しかし、遺族になったあと、遺族であり続けるか、それとも遺族であることを止めるか、その選択は可能なのかもしれない。

 極端な例をあげれば、孤独死のあと、親族のだれもが葬儀をすることも嫌がることがある。「自分で家を出ていった。この何十年という間、いちども会っていない。いまさらなぜ自分が葬儀代を出さなければいけないのか」というわけだ。この場合、孤独死を発見した役所から連絡を受けた瞬間だけは遺族となるかもしれないが、たちまち遺族であることを止めてしまう。

 自助グループに集う自死遺族たちは、ある日突然に遺族になったあと、遺族として生き続けることを選択したのだと思う。つまり、亡くなった人を愛しく思いながら生きる「遺族という生き方」を選んだ人たちである。さらに正確にいえば、愛しく、そして悲しく思いつづける道しか自分には残されていないと自ら気づいた人であると言うべきか。あれか、これかと気軽に選んだわけではなく、これしかないと深く思いつづけたうえで、避けられない定めのように受けとめられた「遺族として生きる」道である。

 自助グループは、どんなものでも二重の門に守られている。第一の門は、当事者しかくぐれない。そして、この当事者になるのは、自分の選択では不可能である。障害者であれ、難病患者であれ、自分から当事者になるわけではない。第二の門は、ひとつの生き方や価値観に共鳴した人だけがくぐれる門だ。第一の門は、自らの意思で通るのではないが、第二の門は、自らの意思で通る。この全く性格の違う二つの門が重なっているところに自助グループの、外から見たわかりにくさがある。

 遺族の自助グループの第二の門に掲げられた「生き方」とは「遺族として生きる」ということだろう。葬儀が終わって何年も何十年もたっても亡き人とともに生きていく。そのような遺族にとっては、悲しみは愛しさであり、悲しみが終わることはない。「愛しさからの回復」がないように「悲しみからの回復」もない。いや、そもそも亡き人を愛しいと思う心は、遺族にとってごく自然なものであり、そこからの「回復」を目指すようなものではないのだ。

 「悲しみからの回復」をことさら強調する専門家は、遺族として生きている人たちの「生き方」そのものを否定してはいないだろうか。あまりに深くて豊かな愛しさのゆえに静かな心に染み入る悲しみを歩む遺族の生き方に、そこを自らの「専門」と呼ぶ専門家は黙して敬すべきではないか。

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