心にふれる支援、ふれない支援

 

いくつか前の章の「癒やしたい人の卑しさ」は、2009年というから、もう13年も前に書いたものであるが、自死遺族の田中さんは気に入ってくださったようで、毎年のように私の講演の際には、コピーを配ってくださる。それで、これを広げたテーマを、ぜひこの本のなかで論じたいと思い、「支援者との反目」と「無意識の支援臭」を書いたのだが、そのあと重要なことに気がついた。自助グループに集う遺族も、すべての支援者と対立しているわけではないということである。

自助グループに集う遺族から見ると、支援者は、おおざっぱに言って、二つのタイプに分かれるようだ。以前の言葉を使えば、「癒やしたい人」と、そうではない人である。あるいは「遺族の心にかかわろうとする人」と、そうではない人と言ってもいい。「遺族の心にかかわろうとする」支援者は、もちろん、遺族を助けたいと思うからそうするのであり、すなわち「癒やしたい」という動機がそこにあると考えていいだろう。

「遺族の心にかかわろうとする」支援者は、自分自身は、遺族の気持ちがわかると信じている。あるいは、努力すれば、誠意があれば、いくらかは理解できると思っている。理解できないと思っていたら、心にふれる支援などできるはずがない。病気が何かわかっていないのに、薬を投与し、手術をする医師はいない。自死遺族の心理を分析した調査に基づいた論文や報告書、著書はかなり公刊されている。それを熟読することによって、遺族の気持ちを理解できると思っている。それが専門家と呼ばれる立場の人々の原点であり、限界でもある。

一方、自助グループに集う遺族は、同じ体験をしていることで気持ちを理解しあえると考えている。どこそこの大学で自死遺族の心理について勉強しただとか、グリーフケアの研究をしているだとか、そういう文字や数字や理論を通して、遺族の思いがわかるのではないと思っている。逆にいえば、そう考えている遺族が、自助グループに集う。自助グループに入ってから考えが変わるというより、もともとそういう考えの遺族が、支援者が運営するグループよりも自助グループを選ぶのである[i]

 支援者のもうひとつのタイプは、遺族の心には、ふれない。愛する家族を自死で喪うことがどれほど辛いか、それは自分たちの想像を超えていることはわかる。想像を超えていることは、語れないし、語っても意味がない。だから沈黙する。「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」[ii]からである。

 では、心にかかわらない支援者は何をするのか。実は、自死遺族の自助グループには、(遺族の気持ちに関心を向けながらも)遺族の心に直接かかわらない支援者が多くいる。まず、弁護士や行政書士などの法律関係者である[iii]。全国自死遺族連絡会は、弁護士や行政書士等から構成される「自死遺族等の権利保護研究会」ともに「自死遺族が直面する法律問題」[iv]という冊子をまとめ、インターネットを通じて配布している。そこでは、不動産賃貸借、いじめ・体罰、医療過誤、生命保険等にかかわる法的問題の情報が整理され、掲載されている。弁護士など法律に詳しい専門家の協力なくして、このような情報のパッケージを作成することは全く不可能だっただろう。

 またジャーナリストの支援者も多く、たとえば、自死遺族の自助グループを先駆的に始めた田中幸子さんを取り上げた一連の新聞記事は[v]、自助グループの社会的認知を非常に高めたと思われる。全国的な自死遺族の集まりには、必ずといっていいほど、テレビ局の取材が入り、新聞社から記者が来ている。彼らは遺族の声を聞き、それが広く社会に伝わるよう支援していると言える。

 さらに、ソーシャルワーカー[vi]や、地方自治体の議員も素晴らしい支援者として働いている例がある。生半可な心理療法の知識や手法を使うのではなく、本来の仏法や神の教えを説きながら遺族にかかわる宗教者もいる。

私は、ここで「遺族の心にかかわろうとする」支援者を一方的に非難しているのではない。また「遺族の心にかかわる」支援が間違っていると言いたいわけでもない(そんな判断をする資格は、私にはない)。ただ自助グループに集う自死遺族は、法律問題や広報、社会的な関係など、心理や精神医学にかかわらない分野の支援者とは、だいたい(すべてではないが)良好な関係があるように思えるということである。そして、それがなぜなのかを明らかにすることは、以前に述べた「支援者との反目」を解消することにつながるのではないかと考えている。

この章のタイトルは「心にふれる支援、ふれない支援」とした。これだけでは「心にふれる支援」が良くて、「ふれない支援」が悪いという印象を与えてしまうかもしれない。しかし、私たちが、たとえば歩いていて転倒したとき、立ち上がるときの手伝いをしてくれる通りすがりの人には感謝するだろうが、そのときは必要以上に自分の身体には、ふれられたくないだろう。ほとんどの支援者は、全くの「赤の他人」なのである。人は「ふれあい」を求めているといっても「赤の他人」と、いきなり「ふれあい」たくはない。自死に関連する極度にプライベートな世界に「土足で踏み込む」ようなことは、されたくない。だから「心にふれない」支援のほうが、遺族からすれば受け入れやすい。そして「心にふれる」支援は、同じ体験をしている遺族から、と願った人たちが、自助グループに集まるのである。

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[i] この点は非常に重要である。自助グループの効果を測るために、自助グループに入ったあと、人は、どう変わったかという研究論文は山ほどあるのだが、もともと自助グループには、人は自発的に加わるのである(「自助グループのなりたちの基本的要素2:活動の自発性」)。したがって、自助グループに参加しようと決めた時点で、自助グループに参加しない人とは異なる考え方をもっている可能性がある(つまり、自助グループに参加することで変わったという主張が否定される)。これは自己選択(self-selection)の問題といわれ、自助グループの効果を測る調査に対して、その難しさを指摘するときに必ず議論の対象となるLieberman and Bond, 1979, p. 337).

[ii] Wittgenstein (=1968, p. 200).

[iii] Oka (2020).

[iv] 全国自死遺族連絡会・自死遺族等の権利保護研究会(2018)

[v] 寺島(2007).

[vi] 岡・新宮(2016).

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