支援者との反目

 

冒頭でも述べたが[i]、私は自死遺族の田中さんと出会うまで、死別や自死の問題について、ほとんど関心をもつことがなかった。田中さんから何度か協力を依頼されても「専門外です」と断っていたほどだった。もっている知識もごくわずかで、知っていることといえば、いまとなっては間違いだらけだとわかった「悲嘆回復のプロセス論」[ii]ぐらいだっただろうか。

 しかし、この無知がかえって良かった。「自死遺族について書かれていることの多くが間違っている」と遺族から言われても、「ああ、そうなんですか」と、あっさりと受け入れられる。もしも、私が自死遺族や死別の理論を何年もかかって学んできていて、そして、多くの時間と労力をその学習のために「投資」していたら、そう簡単には遺族の言うことを受け入れなかったかもしれない。それを受け入れたら、自分がいままで間違ったことを信じていたことになり、これまでの自分の努力を否定されるように思うから、意固地になって遺族の主張を退けたかもしれない。

 無知だけではなく、自死遺族の支援者とのあいだにほとんど人脈が無かったことも幸いだった。現在では、私の専門分野である社会福祉学でも自死遺族についての研究は目立つようになってきたが[iii]、私が遺族の自助グループにかかわり始めたころは、ほとんどなかったように思う。自助グループに集う遺族たちが強烈に批判し、嫌っている支援者たちは、精神医療の関係者であったり、心理学者であったり、宗教家であったり、NPO団体の代表者であったりするのだが、そのなかに私の知人はほとんどいなかった。面識もない人がほとんどだったので、たとえば「○○先生というのは、どういうかたですか」と聞けば、「遺族を蔑(さげす)む人です!」などと寸鉄人を刺すような言葉が返ってきたりしたのだが、私はその語気の強さに少し圧倒されながらも、「ああ、そうなんですね」と平然と聞くことができた。

 あまり具体的には書けないのだが、自死遺族への支援をめぐるあるシンポジウムで、田中さんが遺族の代表として発言していた。そのなかで田中さんは「遺族をもっとも傷つけているのは、支援者です! 私の戦いは、支援者との戦いでした!」と大きな声でおっしゃった。他のシンポジストはもちろん、会場にいる大多数の出席者は「支援者」だったので、その場は、たちまち凍りついたようになった。そして、その田中さんの言葉に抗議するような発言が、フロアにいた支援者と名乗る人物からあった。シンポジウムは、その後、特に討論もなく終わったのだが、終わったとたん、シンポジストの一人で、支援者として著名な人物が、壇上から降りてきて、会場から発言をした人に近づき、「よくぞ、言ってくれました!」と、笑顔でその肩をたたいていた。その声はとても大きく、身振り手振りも大げさだったので、自分の憤慨を周囲の人々に見せるための演技もあったのだろうと思う。私は、その二人のすぐ前に他の遺族の人たちといたのだが、私の隣にいた遺族は、それを指差し「何よ、あれ!」と吐いて捨てるように言い怒っていた。私は遺族と支援者との反目は、ここまでになっているのかと改めて驚いた。

 しかし、なぜ、こんなにも遺族と支援者は仲が悪いのか[iv]。それを疑問に思いつつも、私には既視感があった。それは私がまだ学部の学生のときのことだ。1983年、身体障害者たちのグループが、障害者福祉施設前で、施設で暮らす利用者との面会を求めて座り込みをした[v]。私はそのとき、たまたま座り込む障害者の介護ボランティアとして、その現場にいた。一月の寒い夜に二晩も座り込むことは、健康に問題をかかえる障害者にとってはまさに命がけのことだと、そのとき聞いた。

 現在は、障害者と施設職員がこれほど対立することは稀だろう。おそらく、その当時、障害者が社会的に力を持ち始めて、これまで圧倒的に強かった施設職員の側との上下関係にゆらぎが生じた。対等な関係に至る途上での地殻変動だったのだろう。そう考えれば、自死遺族と支援者との衝突も、いままで黙って抑えられていた遺族が立ち上がったためであり、望ましい対等な関係が形成されるまでの、ひとつの通過地点なのかもしれない。

 私に既視感を与えたものは、もうひとつある。それは「ひきこもり」経験者たちが、支援者について語ったときの様子だった。あるとき、私は「ひきこもり」を体験している人々と、支援について話し合う機会をもった。そのときに、こんな発言があった。「『ひきこもり』支援とか居場所作りとかは、行政でもNPOでも、都内だと、いろんなところで行なわれているんですよ。でも、誰も行かない。俺も行きたくないな。」私には、それがとても興味深かった。それは、行政やNPOが用意している遺族の集まりに、ほとんど人が集まらないという(自助グループに集う遺族たちの)話と重なるように思えたからだ。

 「なぜ、行かないのですか」と私が尋ねた。「ひきこもり」経験者たちは、少し笑いながら、「支援臭、ぷんぷんでしょ」というのである。「支援臭」とも「支援者臭」ともいうようだが、「支援者」から出てくる嫌な臭いを意味し、実際に、当事者の間ではよく使われる言葉だという[vi]

 私が、ここで言いたいのは、当事者と支援者とが反目しあったり、当事者が支援者を嫌がったりするのは、自死遺族の間だけではないということだ。特定の支援者あるいは当事者の個性によるのではなく、当事者が立ち上がり、社会的に声を出そうとしているのに、支援者が「声なき弱者」という当事者像にこだわり続ける。そこに、こうした軋轢(あつれき)が生まれるのだと思う。

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[i] 悲嘆回復プロセス論は間違っている

[ii] 「悲嘆回復のプロセス論」の間違いについては「グリーフケアのありがちな間違い」で述べた。

[iii]  本書でとりあげた文献のなかから選べば、岡本(2018)大倉(2020)はいずれも社会福祉学の研究である。

[iv]  もちろん私の周囲の遺族たちも、すべての支援者と仲が悪かったわけではない。対立していた支援者にはいくつか共通点があるようだった。それについては後で述べたい。

[v] 施設の外で暮らす障害者と施設のなかにいる障害者が互いに会いたいと思っている。しかし、施設はそれを許さない。その状況のなかで座り込みが行われた。荘田(1983)による記録がある。

[vi] 「無業の若者支援の現場では、『私はあなたを支援します』と『上から目線』で接する支援者を『あの人は支援臭がする』と揶揄する言葉がしばしば聞かれる。」(貴戸, 2017, p. 226).

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