癒したい人の卑しさ[i]

 

 いまから書くことは、かなり毒を含んでいる。少なからぬ読者からお叱りを受けるかもしれない。しかし、ここ数日つづけて、それを考えさせられることがあった。福祉にかかわる者の一人として自戒をこめて書いているのだと大目に見ていただきたい。

 それは「癒したい人の卑しさ」ということである。「卑しさ」とは言い過ぎかもしれない。しかし、語呂が良いから、そうしておこう。

 人を癒したいと考えている人がいる。そういう人すべてではないが、そのなかには人として卑しい心持ちをしている人がいるということだ。そういう人たちは自分では気づいていない。人を救いたい、あるいはすでに救っているという自負があるし、またその姿勢が社会的に評価されていると思いこんでいるから、余計にその卑しさが目立ってくる。

 思いつくままに、そういう人の様子を描いてみよう。

 ある人は誰かを癒したいと思っているから、自分よりも弱いと思える人を探している。誰か傷ついている人はいないか、血を流してうずくまっている人はいないかと目を皿のようにして周囲を見回している。

 そして、そういう人を見つけたら、嬉々(きき)として近づく。その前まできたら、心の底からわき上がってくる喜び(人を癒せるという喜び)からくる笑顔を無理にでも消そうとする。この笑顔を消すことは訓練をして学んでいる。結果として、心配そうに眉をひそめた「作り憂(うれ)い顔」が浮かび上がる。普通の人は「作り笑い」しかできないが、こういう人は「憂い顔」さえ作ることができるのである。

 そして「泣いている人」が、そのまま泣いていてくれたら嬉しいし、まして、自分の腕のなかで大声で泣いてくれたら、これに勝るものはない。そのあと「泣くことができてすっきりしました」と言われたら、その脳裏にイエスと荒野に捨てられて泣き叫ぶ人とが出会う絵が重なり、それこそ天にも昇る気持ちになるだろう。「癒し人」の冥利に尽きるというものである。

 しかし、その泣いていると思った人が思いがけなく力強い声で答えたなら、「癒したい人」は戸惑うだろう。彼は「強い人」よりも「弱い人」を求めている。ときには「弱い人」を求めるあまり、人の弱いところを暴(あば)き出し、「ほら、あなたにはこういう弱さがある」と指し示す。それで相手が自分を「弱い」と認めたらそれを喜んで慰め、認めなかったら「強がっている」と非難する。

 彼は癒そうとする相手と自分とは「対等だ」と口では言うものの、慈父あるいは慈母のように一段上から見ているつもりで、本当のところは自分の優位を信じて疑わない。そして一度でも自分が「癒した」と思う相手が、その後どれほど飛躍しても、あれはかつて自分が癒した者だと公言し、その人がいつまでも感謝し、自分の前に頭(こうべ)を垂れることをどこかで期待している。

 言葉と笑顔だけで癒すのは、もともとは宗教者の仕事であったはずだ。そして宗教者は神仏の道具として人を癒していたのであり、それを自分の力とは思っていなかったと思う。それを自分の知識や技術や才能で癒すことができると思うから人品の卑しさが際だってしまう。

 誰かを癒したいと他人(ひと)の涙を探す人に憤(いきどお)っている人は存外、少なくない。苦悩を自らのものとして受けとめている人は誰かに癒されることを待っているわけではない。その耐える姿に敬意を払うことが、まずは求められるのだろう。

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[i] (2009b)初出.

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