二つの帽子

 

自助グループの研究者の間で「二つの帽子」と呼ばれる問題がある。「二つの帽子」とは、英語の two hatsの和訳であり、そもそも「一人二役」という意味だという。

 何の二役かというと、「当事者」と「専門家」、遺族の周辺でいえば、「遺族」であり、しかも「専門家」である人である。こういう人は、意外に多い。そして、その本人たちも気づいていないことが多いのだが、それは、かなり複雑な問題につながることがある。それを「二つの帽子」問題と呼ぶわけだ[i]

 映画や芝居で、二役をするのは、たいてい人気役者で、それは映画での見どころだったりする。しかし、二役が同時に画面に出てくることはない。たとえ映像のトリックで二役が同時に出たとしても、一人の人物から二人の言葉が出てこない設定になっている。もともと二人は別の人物であるという前提なのだから、それは当然のことなのである。

 映画と同様に、自助グループでも一人二役の人は、本来、同時に出ることはない。というより、出てはいけないのである。たとえば、「悲しみは波のようだ」と言うとき、遺族なら自分の体験を言っているのだし、専門家なら、どこかで学んだことを言っている。しかし、二つの帽子をかぶっている人が、そういうのなら、それは自分の体験から思うことなのか、教室で聞いたことをそのまま伝えているのか、聞いている人にはわからない。だから、どのようにその言葉を受けとめたらいいのか迷ってしまう。その迷いのなかで、対話は止まってしまうのである。

 二つの帽子を持っていること自体には何の問題もない。人を支援する仕事に就いていた人が、遺族になることがある。また遺族としての経験から、誰かを助けたいという思いが強くなり、そのような職業を選ぶ人も多いだろう。大事なことは、二つの帽子を同時にかぶらないということだ。一つの帽子をかぶっている間は、もう一つの帽子は、どこか遠くにしまっておく。紛らわしいので、手元には置いておかないほうがいい。

 繰り返していえば、二つの帽子をもつ人は、いくらでもいる。だが、帽子の上に帽子を重ねてかぶる人は誰もいない。もし、いるとしたら、それは異様で、滑稽な姿だ。しかし、自助グループのなかでは、しばしば帽子を重ねてかぶる人がいる。それが自分の強みとさえ思っているのかもしれない。

 たとえば、専門家どうしの議論になったとき、突然、遺族の帽子をかぶり、「これは私の遺族としての意見だ」と宣言して、他の専門家に対して優位な立場に立とうとする。そこにいる専門家は、謙虚な人であればあるほど、それを聞いて何も言えなくなる。自分には直接的な経験がないために、どうしてもわからないことがあると知っているからである。

 逆に、遺族どうしで話し合っているときに、専門家の帽子を手にとって「いや、それには、これこれこういう理論があって」と、一般の当事者にはわからないような専門用語を使い、煙に巻くようにして、一段高い見地に立ったように蕩々(とうとう)と「説明」をする。「あなたたちは自分の個人的な体験だけから物を言っているが、私はもっと学問的な観点から話しているのだ」という、何だか嫌味な感じなのである。

 二つの帽子を同時にかぶる人への対処が難しいのは、こういう理由なのだ。遺族の顔と専門家の顔をうまく使い分け、仮面を交互に取り替えるようにしながら、対話のなかでの優位を保とうとする。もちろん、そんな真実味のない「優位」なんて相手にしない!という声もあるだろうが、私の見るところ、現実には二つの帽子をかぶっている人は強いようだ。

 その強さを裏打ちするのは、なんでも折衷のものを良しとする日本の文化的な価値観があるのかもしれない。なにせお寺のなかに神社を建ててしまう国民性だ。異質なものも、ひとつに合わせてしまうのを良しとしている。二つの刀をもつ二刀流なら、一つの刀よりも強いのではないかと思うのかもしれない。

 しかし、そこには隠された前提がある。それは、遺族(当事者)の考え方と、専門家の考え方は共存できるという前提である。そして、その前提では、遺族(当事者)の考え方は、専門家の考えが圧倒的に強い社会のなかでは、専門家の考え方を補う、補助的な役割に甘んじなければいけない。とすれば、それは、遺族の考え方、特に遺族の自助グループの考え方の批判性を奪うことにつながる。平たく言えば、遺族の自助グル−プの考え方の「棘(とげ)」のようなものが失われてしまうのである[ii]

 そして、もうひとつの危険性は、それが「遺族ビジネス[iii]」につながってしまいかねないということである。これについては別の節で述べることになるだろう。

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[i] 岡・Borkman, 2011, p. 17

[ii] グリーフケアのありがちな間違い」で述べたように、自助グループに集う遺族は、専門家とは相容れない価値観を持つことがある。それが否定されてしまう危険性をここでは指摘している。

[iii] 遺族ビジネス

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