助グループの基本的要素

 

前の章[i]で、自助グループの定義について、行政機関で多く参照されている報告書や、私の専門領域である社会福祉学の事典等に基づいて述べた。ここからは私自身の体験や持論も加え、更に詳しく論じたい。

先にも述べたように、日本に自助グループを最初に紹介したのは、心理学者の村山(1979)であるが、1980年代からは社会福祉学と看護学の研究者らが先駆的に自助グループそのものを論じはじめた[ii]。私も、当時まだ20代の大学院生だったが、その熱い議論に加わっていた。

そして、そのころからしばしば問題になっていたのが、何が(欧米の文献で言われている)自助グループで、何がそうではないのか、ということだった。それがはっきりしなかった理由としては、以下の3つが考えられた。

一つは、もともと欧米から入ってきた概念だったので、それが日本にどれくらい当てはまるのかわからなかった。たとえば、欧米の自助グループの文化的なルーツとしては、集団のなかで告白するというキリスト教の伝統があるという[iii]。そういった伝統がない日本で自助グループが成立するのかという疑問があった。

二つめは、欧米の自助グループの議論は、アルコール依存症の人々の自助グループ、特にアルコホーリクス・アノニマスの研究を基礎としていると思われたため[iv]、他の自助グループに、その議論を当てはめることには違和感があった。たとえば、患者や障害者の団体も間違いなく自助グループとしてみなせるはずなのだが、日本の患者・障害者団体に、先に述べた「集団のなかで告白する」という文化があるとは考えにくい。

そして最後に、第2の点として述べたことと関連するが、自助グループのあり方は、そのグループが取り組む課題によって大きく異なることだった。わかりやすいのは集会の頻度である。アルコール依存症の自助グループでは、毎日あるいは毎週のように「わかちあい」に参加したという体験談が語られるが、難病患者やその家族のグループでは、年に数回そういう集まりがあればいいほうだったりする[v]。移動が困難だったり、介護のために家を離れられなかったりするので、毎月のように「わかちあい」を持つということ自体が現実的ではない[vi]。したがって「自助グループは、そもそもどれくらいの頻度で集まるものなのか」という質問があっても答えられないのである。

要するに自助グループには多様な形態がある。背景となる文化によって、グループとして取り組む課題によって、それに加わりたいという人々が置かれた社会的状況によって自助グループはさまざまに変化する。そのため自助グループの具体的な描写によってイメージを作り上げようとしてもかえって混乱が生じる。とすれば、逆に自助グループであるためには、最低限これを含んでいなければいけないという「基本的要素」を考えるべきなのではないか。それが私の自助グループ研究の出発点にあった。

そして、自助グループの中核にあるものとして「わかちあい」は欠かせないと考えた。次に、人間の社会にならどこにでもある「たすけあい」でも、人は自らの経験を話し合うことはあるから、その「たすけあい」との違いを考えた。すると、集団の利益を優先するあまり個人の自己犠牲や抑圧につながりがちな「たすけあい」と比べて、グループを構成する一人ひとりの「ひとりだち」を目指すところが、自助グループのもうひとつの中核であると思われた。さらに、ただ「わかちあい」と「ひとりだち」だけでは、現在の社会に順応していくだけであり、自助グループがもつ社会を変えていく力が表現されない。そこで、人々が社会の抑圧から解放される「ときはなち」も欠かせない要素だと考えた。それが自助グループを「わかちあい」「ひとりだち」「ときはなち」の働きをもつ集団と定義することにつながるのである[vii]

ただ「わかちあい」「ひとりだち」「ときはなち」は、すべて自助グループの動きであって、それを成り立たせる基盤となる要素も考慮すべきだとして、自助グループの「成り立ち」の基本的要素も提案することにした。

その「成り立ち」の第一は「共通の体験」である。自助グループは、同じか、あるいは似たような体験をした人々から成り立っている。これについては疑問の余地はないだろう。

第二に「自発性」である。自助グループに人は自発的に参加するのである。逆にいえば、強制的に、あるいは半ば強制的に集められた集団は自助グループとはならない。たとえば、精神病院で依存症の治療を受けている人たちが、医療スタッフの指導のもとに集まって体験談を語るように促されることは、よくある集団療法であるが、これは自助グループとは言わない。指導のもとに集まることは、自発的だとは考えられないからである。

第三に「継続性」である。ある一定期間、続くことが自助グループが成り立つ条件である。たとえば、病院に入院していて、偶然にも同じ病気の人たちが集まり「わかちあい」が行なわれることがあるが、それは自助グループとは言わない。数年後に同じような集まりがあるとは言えないからである。

本書では、以上の自助グループの働きと成り立ちの基本的要素について、ひとつひとつ述べていきたい。

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[i] 自助グループの定義について

[ii] そのまとまったものが、1987年に出された『看護学雑誌』51(1)の「特集:セルフ・ヘルプの理解のために」であった。社会福祉学の久保紘章と看護学の外口玉子が共同で特集号を組んだ。

[iii] Hurvitz(1976), pp. 284-288.

[iv] たとえばAlfred H. Katzは、世界で初めてアメリカで自助グループの研究が始まった1970年代、その研究のリーダーシップをとっていた人だが、その単著(Katz, 1993)では自助グループには12ステップ・グループと、そうではないグループという2つのタイプがあると述べている。12ステップ・グループとは「AA(アルコール依存症者の自助グループであるアルコホーリクス・アノニマス)がアルコホリスムからの回復のためのプログラムとして独自に作り上げた『12のステップ』のうち、グループの特性に応じて嗜癖対象の部分のみを修正した12ステップ・プログラムを採用しているセルフヘルプ・グループのことである」橋本, 1997, p. 151. ただし( )内は岡の加筆)。日本でも12ステップ・グループは多く存在するが、アメリカほどではない。日本の自助グループを12ステップを使っているか使っていないかで分けるのは、グループの数からして実態には合わない。

[v] 難病団体の研究についてはOka(2003a)でまとめた。

[vi] 2020-2021年度のコロナ禍によって、自助グループがオンラインで行われることが日本でも一気に広がった。これによって患者団体の集まりの頻度は今後は変わっていくのかもしれない。

[vii] 「わかちあい」「ひとりだち」「ときはなち」は、私の著書(, 1999)のタイトルにも含めたが、この考え方を社会福祉学会の学会誌に発表したのは、1992年のことだった, 1992a。そのときは「わかちあい」の代わりに「まじわり」という言葉を使っていた。その「まじわり」は、日本のキリスト教の礼拝のなかで読まれる「使徒信条」の「聖徒の交わり」から取った。この章の注ivで示したように自助グループの研究では、アルコホーリクス・アノニマス(以下AA)は別格の扱いであり、そのAAの起源には、キリスト教信者のグループがあった(Kurtz, =2020)AAのメンバーが、AAが作成したビックブックと呼ばれる必携の書を片手にミーティングに参加する様子は、聖書を手に持って礼拝に出席するキリスト教信者の姿と重なった。また信者であれば、旅先で出会ったどの教会の礼拝に出てもかまわないように、AAのメンバーも他のグループのミーティングに出ると歓迎される。教会の「会」は、なんらかの組織ではなく信徒の「まじわり」とされていた。同様に自助グループの集まりも「まじわり」と表現することが適切だと考えた。ちなみにカトリックでは「『聖徒の交わり』とは、『聖なるものの分かち合い』と『聖なる人々の交わり』という意味を持ち、聖徒たちの交わりが、まさに教会なの」(カトリック中央協議会, n.d.だという。「まじわり」が「わかちあい」につながっている。とはいえ、これは和訳によって、そうなっているだけであって、英語ではどちらもcommunionだった(Libreria Editrice Vaticana, n.d.Communionは「聖餐式に参加する行為」という意味が第一だが、「考えや感情を共有すること」(sharing thoughts and feelings)という意味もある(weblio, 2022)。

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