自助グループのなりたちの基本的要素3:活動の継続性

 

自助グループの成り立ちの最後の基本的要素は、集団の活動の継続性だ。活動が続いてこそ、自助グループなのである。たとえば、入院をしていて、同じ病気の人と偶然に出会い、毎夜、病棟の休憩室で互いの経験をわかちあったということは、よく聞く話だ。その人たちにとっては忘れられない良い思い出になったかもしれないし、手術前の不安に苦しむ人にとっては大きな救いになっただろう。しかし、これは自助グループとは言わない。こんな偶然のグループは1ヶ月後にも残っているかどうかわからないし、たとえ長期の入院患者ばかりだとしても、同じメンバーが数人集まるだけでは、おそかれ早かれ雑談会のようになり、続いたとしても新しい人が加わることがない「仲良しクラブ」[i]になってしまう。

 自助グループが成り立つために継続性が必要である。その場かぎりのものや、10回開催して終わりと決まっているような集まりは、自助グループとは呼ばない。5年、10年と続いていくという前提で自助グループはつくられている。

自助グループにとって継続性が重要である理由として、おそらく意外に思われてしまうのは、自助グループは成長するものであり、また成長するためには年月が必要だということだ[ii]。自助グループは、結成すれば、その日のうちに自助グループとしての力を十分に発揮できるわけではない。

 なぜなら自助グループは、それぞれが取り組む課題やメンバーが置かれている状況によって、活動の内容が大きく異なる。生まれたばかりの自助グループは、自分たち自身でグループの望ましい姿を創り出していかなければいけない。それには時間がかかるのである。外国に似たようなグループの活動の様子は、参考にはなるだろうが、文化や社会的状況の違いによって、それをそのまま使えるとは限らない。

 たとえば、わかちあいの頻度でも、毎日、毎週行っている自助グループがあるが、外出が困難であったり、家族の介護があったりする人々の自助グループでは、それは現実的ではない。「『言いっぱなし、聞きっぱなし』の原則」ということが、自死遺族の自助グループでも言われているが[iii]、すべての自助グループが、その原則を意識しているわけではなく、年になんどか、みんなで宿泊して飲みながら、いわば「激論をかわしながら」深夜まで語り合うグループもある[iv]。いっしょに食事をする機会を大事にしているグループもあれば、それを(そこに集まるメンバーは、その特性によって「対人関係において適切に距離をとることができない人が多い」という理由で)禁じているグループもある。どのような形がグループとして最も良いのか、それは、実際に実践をとおして試行錯誤してみるしかないだろう。

 このような具体的な活動の形の模索あるいは開発だけではなく、おそらくもっと基本的で、かつ重要で、しかも時間がかかることは、自助グループとしての独自の「考え方」を創っていくことである。自死遺族を例にして考えてみよう。

 多くの場合、ひとは突然、自死遺族になる。それまでの世界がすっかり変わってしまう。何もかもが違ってしまう。色鮮やかに輝いていた美しい風景が、モノクロの、しかも自分にとっては何の意味もない画像か、ガラス窓についた汚れのようにしか見えない。さしあたり葬儀の準備など、やるべきことはあり、感情のない機械のように動いてはみるが、そのあとは、全くの空白が、まるで永遠のように続くような気がする。いったい何が起こったのか。どうして、こんなことになったのか。これから、どうなるのか。どうしたらいいのか。私は何をしたいのか。何ができるのか。そもそも私は何のために、ここにいるのか。無数の疑問符がつぎからつぎへと出てくることだろう。

 「遺族は、よく本を読むんですよ」と、遺族のかたから何度も聞いている。いろんな本をかたっぱしから読むという。きっと、どうしようもなく溢れるような「なぜ」という問いが、遺族を苦しめるのだろう。

そして、何人かの人たちは、グリーフケアにたどり着く。そこで、ある人は「あなたは病気なのだ」と言われ、また、ある人は「あなたは回復の段階の最初のあたりにいる」と言われ、救いを求めていたにもかかわらず、かえって自分を否定されたように感じる。人によっては、いまの状態が「異常」であり、人としてあるべき姿になっていないと言われたに等しいと思う。世間で言われている「グリーフケア」では、新しい研究では否定されてしまっている古い「理論」などが、あたかも唯一絶対の「正しい見方」であるかのように紹介されていることが、しばしば見られる[v]。それが「科学」の装いをもって提示されるとき、遺族はそれを無条件に受け入れるよう迫られているように感じるのだ。

そんなとき自死遺族の自助グループは、別の考え方を示してくれる。たとえば「悲しみからの回復はありえない」という考え方だ[vi]。あるいは、悲しみを、心を蝕(むしば)む「毒」ではなく[vii]、亡き人への「愛しさ」として理解する[viii]。こうした考え方は、自助グループのなかで「わかちあい」を積み上げていくことで、最初はそれぞれの言葉にできない思いや、個人の偶然の思いつきだったものが、グループのなかのはっきりとした確信になっていく。その考え方の形成に時間がかかるということなのだ。

継続性が自助グループの成り立ちの基礎である、もうひとつの理由は、継続性を前提としないグループは、社会に開かれていないということである。つまり、新しい人が入ってくることを考えていない。いまいる人々の関係だけで満足している。グループの外にいる多くの「まだ見ぬ仲間」[ix]について考えることがない。新しい人が入らなければ、グループに集まる人々は、高齢化して、あるいは同じメンバーばかりで「わかちあい」も停滞し、グループは、いずれ自然解散となる。

個々のグループが消滅することには、大きな問題はない。人が老いたら死を迎えるように、グループにも必ず終わりがある。しかし、人は、次の世代に文化を伝える。同様に自助グループで育てあげた価値観や考え方、わかちあいの方法などが、次の世代に受け継がれれば、それが別のグループであっても、それで良いのである。自助グループの成り立ちのための継続性とは、そのように個々のグループが生まれ、また消えていくという波を超えて、連綿と続くことをいう。

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[i] わかちあいのルール7:『仲良しクラブ』にならない

[ii]  Borkman(1999, p. 117)には、時間とともに3段階で成長する自助グループのモデルが描かれている。すなわち初期、発展期、成熟期であり、成熟期は新たに学ぶ姿勢のあるグループと、硬直した教条主義的なグループに分かれるとしている。この場合、個々のグループの成長をいうのではなく、同じ考えをもつグループ全体をひとつの単位としている。なぜなら同じ考えを持つグループなら、先行するグループからいろいろな経験を学ぶことができるからである。つまり、結成されたばかりのグループでも先行するグループから学ぶことによって初期の段階を飛び越えることができる。

[iii]  大塚ほか(2009), p. 4.

[iv]  たとえば、私が以前、参加した難病の子どもをもつ父親たちの集まりがそうだった。病気の子どもの育児のために親はそんなに頻繁に外出できない。そのため夏に家族みんなが、大きなホテルに合宿する。子どもたちはボランティアのグループが見ていて、その間、母は母どうし、父は父どうし、きょうだいはきょうだいどうしで集まるのである(Oka, 2003a)

[v]  これについては「グリーフケアのありがちな間違い」で書いた。

[vi]  「悲しみからの回復はありえない」

[vii]  「悲しみは病気ではない」

[viii]  「悲しみは愛しさ」

[ix]  「まだ見ぬ仲間」については「自助グループのなりたちの基本的要素1:体験の共通性」で述べた。

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