わかちあい以外の活動1茶話会・飲み会・食事会

 

自助グループの活動の中核には「わかちあい」がある。もちろん自助グループにはいろいろな考え方があるが、私は、この本では、一貫してこの考え方の上にたって論じている。

 とはいえ、それが自助グループの活動のすべてではない。背骨が人体の中軸だとしても、背骨だけでは人の身体は動かない。それと同様に「わかちあい」だけでは、自助グループは回らない。その他にも、さまざまな活動がある。その一つが、茶話会のようなものである。

 「茶話会のようなもの」という曖昧な言い方をするのは、これに決まった言葉がないからだ。飲み会、懇親会、交流会、食事会と、いろいろな呼び方がある。わかちあいでは、遺族だけが遺族としての体験をわかちあうのであるが、茶話会では、遺族が中心にはいるが、誰でも参加していいし、話題は何でもいいのである。

 私が好きなのは、遺族の人たちが集まって行われる飲み会である。自死遺族の人たちが集まる飲み会と聞くと、知らない人はどんな光景を想像するだろうか。シーンとして、あちらこちらで、むせび泣く声が聞こえるような集まりだろうか。

 コロナ禍で全国から宴会が消えてしまう前までは、全国自死遺族フォーラム[i]のあとは、いつも全国から集まった自死遺族たちの飲み会があった。私も初めてそこに誘われたときには、どんな会になるのか想像できなかった。しかし、最初からすっかり馴染んでしまって、お酒を飲んで、周りの遺族たちといっしょに、ハハハッと笑ったりしていた。その盛り上がり方というのは、他のどこかの会と全く変わらない。いや、それどころか年に1回しか集まれない、電話でしか話したことがないという人たちが会える喜びだろうか、普通の宴会よりは笑いが多く賑やかな感じなのである。

 もちろん、そこに参加しない遺族もたくさんいる。人はさまざまだから、お酒を飲んで騒ぐなんて、遺族になる前から興味がないという人もいるだろう。しかし、一方では、遺族になる前から、大勢で楽しく飲んだり、食べたりすることが好きだった人もいるはずだ。それが遺族になってから、その気持ちになれない。子どもが自死したのに楽しそうに笑っていると、後ろ指を指されることを怖れているのかもしれない。あるいは、もうショックから立ち直ったと誤解されてしまうことに不安を感じるのだろうか。

 私は、遺族の飲み会のあと、カラオケに誘われたことがある。しんみりした唄ばかりを歌うわけではない。歌っている様子は、どこにでもいそうな酔客と変わらない。ただ遺族は、まわりがみんな遺族で、そして、そのまわりの遺族は、楽しく歌っていても互いの心には深い悲しみがあることを知っている。だから安心して、歌えるのである[ii]

 自死で愛する者を失った深い悲しみについては、何も言わないでもわかってくれている。そういう感覚が、この集まりにはある。だから、自死とは何の関係もない話をしていてもいい。ある人は、私に東洋医学の蘊蓄(うんちく)を熱く語ってくれたが、私は酔っ払っているためか、あるいはそもそもそういうことに関心がないのか、聞いても何も頭に入ってこない。しかし、私に熱心に話してくれるのが、何となく嬉しくて、周りの大きな笑い声に消されてしまいそうな、そのボソボソというお話に耳を傾けていた。この方は、たしかに遺族なのだが、誰を亡くしたのか、それを私に語ってくれたことはない。他のかたに聞くと「わかちあい」にも、あまり参加されないそうだ。しかし、飲み会には必ずくる。遺族と飲むのが好きらしい。遺族であるという自分を、そのままで受け入れてくれる、この場がこの人にとってはとても重要なのである。

 自分の気持ちや体験、内面を言葉に表現して外に出す。そのことは誰にとっても心地良いというものでもないし、実際、良い結果になるとも限らない。それが不得意な人もいるだろう。それでも自死遺族であることを、なかなか人には明かせない毎日をおくっている人には、何も言わなくても遺族の一員として無条件に受け入れてくれる茶話会のような集まりが、とても貴重なのである。

 茶話会・飲み会・食事会は、他に、遺族と遺族ではない人たちを結びつけるという重要な働きがある。これについては別のところで述べたい。

1757

目次に戻る

 



[i] 全国自死遺族連絡会が2008年から毎年のように開いている全国規模の集会である。詳しくは全国自死遺族連絡会(n.d.)を参照。

[ii] これについてはプロセス論が拒否される第二の理由:「終結」があるからで述べた。

 

inserted by FC2 system