わかちあいのルール2:「悲しみ比べ」をしない

 

「悲しみ比べ」をしないこと。自死遺族の自助グループでよく聞く言葉だ。「あなたよりも、私のほうが悲しい」と言われると、たとえ遺族どうしでも、ひどく傷つくという。

 他の自助グループでも、これは、よく聞く。私がかかわった難病の子どもの親の会では、皮肉をこめて「不幸自慢」とか言っていた。「私のほうが不幸だ!」と、まるで自慢をするかのように言い合うのである。たとえば、同じ難病でも知的障害がともなう場合と、ともなわない場合がある。知的障害のある子どもをもつ親が「あなたの子どもは親の言うことをちゃんと理解できるのだから、いいわよね」と言うと、知的障害のない子どもをもつ親は「自分の病気が進行していくことを知っている我が子とどうやって向かい合えばいいか、私は日々悩んでいる。その辛さがあなたにわかるのか」と怒り出す。せっかく出会えた同じ難病と闘う仲間なのに、ここで気持ちが離れてしまうのである。

 アルコール依存症の会でよく使われている、これに近い言葉は、自己憐憫だろう。人と比べるというより、自分が世界で一番かわいそうだと嘆く。他の人の体験談を聞いても、「そうは言っても、まだ若いからいいじゃないか」とか、「支えてくれる家族がいるから、まだいいじゃないか、俺などはひとりぼっちだ」とか、自分のほうがずっと状況が悪いから、酒を止められなくても当然じゃないかと思う。そして、また飲んでしまう。自己憐憫が依存症を深めてしまう結果になるので、これを「自己憐憫の罠」と呼ぶこともあるくらいだ。

 自死遺族の「悲しみ比べ」は、決してしてはいけないことだと自助グループのなかで繰り返し言われているが、逆に言えば、何度も繰り返して言わなければいけないほど根深いものを含んでいる。「誰がなんと言っても、自分の悲しみが一番深いんだ」と、自助グループに集う遺族たちは言っていたが、それが本音だろうし、また、そうでなければ自助グループに来ることもなかっただろうと思う。

 「悲しみ比べ」をしてしまうのは、悲しみを「傷」とみるからかもしれない。「傷」ならば、その深さや傷の大きさを比べることができる。「傷」が癒えるまでの時間で、その重篤さを計ることもできる。また「傷」には、いろんな形がある。ナイフで切られたような切り傷もあれば、深く針で刺されたような傷もある。やけどのような傷もあるにちがいない。似たような「傷」を比べたくなるのも、人間の性(さが)なのかもしれない。

 しかし、悲しみが「愛」であれば、どうだろう。愛は比べられないはずである。一回きりの人生で出会った人を、他の誰とも比べないのが、愛である。私の亡き娘を思う愛と、あなたの亡き夫を思う愛と、どちらが深いかなどという問いは、実のところ全く意味がない。

 遺族の自助グループで言われる「悲しみ比べをしない」というルールは、他の自助グループのように「不幸自慢」や自己憐憫を避けるという意味もあるだろう。しかし、もっと根源的なところには、悲しみを「愛」としてとらえる遺族としての生き方があるのではないか。そう考えると、このルールが教えるところは、限りなく深いのである。

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