すすめかたの工夫1:参加は待つ。誘わない。

 

遺族ではない私は、自死遺族のわかちあいには加われない[i]。それなのに、わかちあいの工夫について、私が書くのは変な話だろう。しかし、私は、これまでいろんな自助グループを見てきたので[ii]、それと比較することによって、いくつかの自死遺族の「わかちあい」の特徴に気づくことがある。それについて、ここでは書いてみたい。

 その第一のものは、わかちあいに、遺族を強く誘わないということである[iii]。参加するかしないかは、本人の自主性に任せる。特に私が興味深く思ったのは、わかちあいの会場の入り口付近で、入ろうか、止めようか迷っている人がいて、その人が遺族であるように思えたとしても、基本的にはこちらから声をかけないということだ。迷っているときは、誰かに後ろから背中を押されたいと思うのが人情だろうが、それをしない。それを初めて聞いたとき、私は、すこし驚いたことを覚えている。

 強く誘わない理由としては、まず、自助グループの参加は自発的なものだという大前提がある[iv]。自助グループは、無理に他人から勧められて、説得されて参加するものではないという考え方である[v]

 田中さんがよくおっしゃるのは、遺族を「オトナ」としてみるということだ。一人ひとりの遺族は「オトナ」として自分には自助グループが必要かどうか、「わかちあい」を求めているかどうか判断できるのである。

 このような考え方は、田中さんが、遺族として自助グループを始めようとするとき、グリーフケアの専門家から「遺族だけでグループを作るのは危険だから止めなさい」と強く言われてしまったことと無関係ではないだろう。そこには、遺族の自助グループは一種の「心理的治療」だという誤解がある。「心理的治療」をそれを行うための訓練を受けていない素人が行ってはいけない、なぜなら素人が行う「治療」行為は、対象者の心理状態をより悪化させる危険性があるからだという論理である。

 これに対しては、自助グループが行っていることは「心理的治療」ではないと反論できる。自助グループには「治療する人」と「治療される人」の区別もない。「自分の体験をわかちあう」という、それだけのことであって、誰かが誰かの発言を分析し、分析をした結果に基づいて助言をするということは無い。また議論をしたり、相手の体験談を「間違っている」などと批判をしたりすることもない。

 それでも遺族どうしが話し合うことによって互いに傷つけあうことがあるかもしれない。しかし、そうだとしても、その危険性は、ふだんの周囲の人々との日常会話での危険性と全く変わりないはずだ。「家族を自死で亡くすことは、非常に辛い体験であるから、専門的に訓練を受けた人に対してだけ話すべきだ」と考えているのなら、それは逆に自死遺族に沈黙を強い、社会的によりいっそう追い詰めることになる。

 ただ、辛い体験を思い出さないことで、心の平衡を保っている人もいる。「わかちあい」のなかで他の人の体験に耳を傾けることで、いままで抑えていた悲しみが湧き出し、涙が止まらなくなったという話も聞く。

 しかし、その場合は、部屋を出るといいのである。わかちあいの場面での途中退出は、遺族の自助グループで広く認められている。わかちあいを前にして、いろいろな不安があるに違いないが、それを自分自身で対処し、判断できるという前提が、自助グループにはある。それが先に述べた「遺族を『オトナ』とみる」ということである。

 自死によって家族を喪ったという悲しみは、それがどんなに深く、大きなものでも、自助グループでは、それを病的なものと見なさない[vi]。病的なものではないから、深い悲しみをもっていても、遺族は自分は何を求めているのかがわかる。ためらいはあっても、わかちあいが自分に必要であると思えば、こちらから誘わなくても一歩踏み出すことができる。そして、その場にいたくないと思えば、自分から席をはずすこともできる。遺族を、誰かの保護や指導が必要なほど弱い存在だとはみなさない。遺族ひとりひとりの人間としての力を信じる。そういった考えから、参加は待つ、誘わないという方針が出されているのである。

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[i]  わかちあいのルール1:当事者だけで

[ii]  (2017)

[iii] 自死遺族の自助グループ「藍の会」を開いている田中幸子さんによる。

[iv] 自助グループのなりたちの基本的要素2:活動の自発性

[v]  他の自助グループにおいても、それは同じだとは言えない。たとえば、アルコール依存症者の自助グループの断酒会では、医療関係者や家族から自助グループへの参加を強く勧められることが多い。

[vi]  悲しみは病気ではない

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