すすめかたの工夫2:最初に自己紹介を

 

わかちあいに入る前に、参加者には、それぞれ簡単な自己紹介を求める。これは、多くの自死遺族の自助グループに共通しているようだ。というのも、集まっているのは、当然、遺族ばかりだろうと思って、それぞれ順番に遺族としての体験を話しはじめたら、ある人の番になって、すこしバツが悪そうに「私は、実は遺族ではありません。今日は、見学させていただきたくて参加しました」との発言があったりするからだ。遺族ばかりの集まりだと信じて、自分の体験を赤裸々に話してしまった人は、ショックのあまり泣きそうになる。さっきまで語った辛い体験は、共感をもって受けとめられたと信じていたのに、向けられていたのは他人からの好奇心だったのかと思うと、貝のように開いたばかりの心には、鋭い針のような痛みだろう。

 ただ、遺族でもないのに、そこに来てしまった人に悪意があるとは限らない。たとえば、親しい友人が自死遺族になったが、どう声をかけていいのかわからないと悩んでいるのかもしれない。あるいは、単に大学の授業で遺族のことを学んで、レポートにでも書くつもりで参加したのかもしれない。自分自身、いつか自死することをどこかで考えていて、しかし、もしそれを実行したら残された自分の家族がどう思うのかを知りたくて、ここまでたどり着いたのかもしれない。いずれにしても「わかちあいには、遺族だけが参加できます」とチラシ等には明記していても、それを見落としている場合もある。遺族ではないことがわかった時点で、退席していただくわけであるが、今後、どこかで会のことを応援してくれる人になってくれるかもしれないので、丁寧に対応していただければと思う。

 さて、実際の自己紹介であるが、簡単なようで複雑な問題がからんでいる。それは、どこまでを遺族と認めるかという問題である。他のところで書いたように[i]、自死遺族の自助グループが作成した文集をみると、遺族とは親子、夫婦、兄弟姉妹までをいう。親子は、親を喪った場合と子を喪った場合に分けられるから、自死した人との関係でいえば、親、子、配偶者、兄弟姉妹と、ぜんぶで4通りの関係性がある。ここでは、そういう遺族を「典型的な遺族」と呼んでおこう。

 問題は、この「典型的な遺族」以外でも遺族といえるのかということだ。学問的な定義や、法律の用例などは、ここでは重要ではない。大事なのは「典型的な遺族」ではない人が、自助グループに集う「典型的な遺族」から「同じ体験をしている」と思ってもらえるかどうかが問題なのである。

ここであまり具体的な事例を書くのは難しい。なぜなら「典型的な遺族」ではないのに、自助グループに参加している人は、実際に少数ながらいらっしゃるし、またその関係性は多岐にわたっているので、具体的に書くと誰か特定の人について書いていると誤解されてしまうと思うからである。

しかし、それでは読者にはイメージしにくいと思うので、あくまで架空の事例であると強調しながら書くと、たとえば、祖母が自死で亡くなった。両親が不在だったので、祖母は母代わりであったという人は、母が自死した人と同様の体験をしていると自分では思っているが、周りからは思われないかもしれない。あるいは、結婚するつもりで同棲していたが、親族から結婚を反対されて、その途中で相手が自死してしまった。この場合、自死した人の親族からは他人とみなされ、葬儀にも出席できなかった。それでも「自死遺族」として自助グループのわかちあいに参加できるのだろうか。

自助グループの参加は、個人の自発性が基礎にあるのだから[ii]、自死遺族とみなすかどうかは、参加者個人が自分で決めればいいのではという意見もある。常識的に考えて、自分で「遺族」だと考えれば、「遺族」であるというわけだ。しかしながら、それで他の参加者が納得するかどうかは別の問題だ。

自死遺族の自助グループは、わかちあいに遺族以外の人が加わることを認めない[iii]。それほど遺族であるか、遺族ではないかの区別にこだわる。「遺族でなければ、絶対にこの気持ちはわからない」という思いがあるからだ。しかしながら「気持ちがわかる、わからない」を基準にするなら、その境界はあいまいである。たとえば、先に述べた例を使えば、祖母を自死で亡くした人には、決して母を亡くした人の気持ちがわからないのかというと、それはその人と祖母の関係性にかかわる。そして、その関係性は、その本人にしかわからない。

それぞれの自助グループが「典型的な遺族」以外、どこまでを遺族として認めるか、あらかじめ決めておいたほうが混乱を予防できるかもしれない。しかし、それを決めたところで、これは微妙な気持ちの問題である。グループの決議として、たとえば同棲だけで結婚していない相手が自死しても自死遺族として認めようとしても、それに同意しない人もいるだろうし、また決議のあとに入ってきた人は、それを不満とするかもしれない。

さらに言えば「典型的な遺族」に対しても、状況によっては自助グループのなかから違和感を指摘する声が出る。たとえば、夫を亡くした妻であっても、すでに再婚している人は、遺族だろうか。本人が遺族であると言えば、遺族なのだろうか。再婚すれば、もう遺族ではないだろうと言う意見が多数になれば、その人を自助グループは排除できるのか。その問いに答えるのは難しいと思う。

以上、気持ちの問題ばかりを繰り返して述べたが、その他にもある。たとえば、婚約者や恋人の関係なら、自死による損害賠償義務を相続することはない[iv]。また喪主になることもない。近隣との継続する関係もない。同居していないなら、警察との対応も求められない[v]。したがって、悲しみや喪失感以外の経済的な負担、ストレスのかかる手続き等の体験は、ごっそりと欠落する。したがって、ここでも「典型的な遺族」と共通の体験を持ちうるかという問題がでてくる。

わかちあいの前の自己紹介は、そういった複雑で扱いにくい状況があれば、それに対処するための準備につながる。そういう意味で不可欠な時間である。

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[i]  自助グループのなりたちの基本的要素1:体験の共通性

[ii]  自助グループのなりたちの基本的要素2:活動の自発性

[iii]  わかちあいのルール1:当事者だけで

[iv] 自死による損害賠償義務とは、たとえば、賃貸したアパートで家族が自死した場合、破損した場所の改修費用等を支払う義務のことである。 全国自死遺族連絡会・自死遺族等の権利保護研究会(2018)

[v] 大倉(2012).

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