わかちあいのルール8:亡くなった人とともに参加する

 

自死遺族であるか、ないかは、外見からはわからない。だから遺族の自助グループの場合、わかちあいに入る前に簡単な自己紹介をしてもらうそうだ[i]

 しかし、自助グループのなかで「遺族である」ことは、そんなに単純なことではない。というのも「家族のなかに自死で亡くなった人がいる」という事実だけで「遺族である」ということにはならないからだ。先にも書いたように[ii]、自助グループにおいて「遺族である」とは、亡くなった人を愛しく思いながら生きるという生き方を選ぶことである。

 たとえていえば、遺族が自助グループに参加するとき、亡き人とともにある。一人娘を亡くして、かなり年月がたったという遺族の方は、私に「いまは娘に会うような気持ちで、わかちあいに参加している」とおっしゃっていた。現在の生活では、いろいろと仕事や雑用に追われていて、朝から晩まで娘を思い出しては涙を流す時期は過ぎた。だから亡くなった娘が、そこで自分を待ってくれているような、わかちあいの場に定期的に足を運ぶのだという。ここに自助グループと治療グループの違いが、はっきりと出ている。治療グループが対象とするような激しい苦悩は、すでに凪(なぎ)のように静かに落ち着いている。精神科医が患者の脳裏に認めるような混乱もない。それでも自助グループに向かうのは、そこに、いまは亡き愛する者との対話があるからである。

 心理治療を目指す治療グループ(支援グループ)に集まるのは、死別体験者であり、一方、自助グループに集うのは遺族である。死別体験者と遺族の違いは、死別体験者は自分自身の体験に向かい合うのに対して、遺族は死者と向かい合っているということだ。そこに大きな違いがあることは、すでに述べた[iii]

 逆にいえば、自助グループの集まりでは、一人ひとりの参加者は死者とともにあることが条件になる。自助グループで気のあう人と仲間になることはあるだろう。しかし、わかちあいの場では、亡き人と無関係なおしゃべりはしてはいけないとされる。それは、一つには「仲良しクラブ」を作らないためだ[iv]また、単におしゃべりを楽しみたいときには、わかちあいではなく、茶話会に参加するように言われるのである[v]

 亡き人とともに参加するわかちあいの場については、当事者ではない私は想像するしかないのだが、きっと悲しいわかちあいばかりではないと思う。全国自死遺族連絡協議会が毎年開いている全国自死遺族フォーラムでは、「亡き人への思い」を誇らしげに語り合う場面があった[vi]。こういう場を設けることができるのも、自助グループならではの働きだろう。「亡き人を思うこと」が、そのまま「悲嘆」であるととらえる治療グループ(支援グループ)では、おちついた笑顔で、いまはいない娘や息子、夫や妻、母や父が、いかに素晴らしい人であったかを語ることは、おそらくは期待されない。最悪の場合、それは亡き人への悲しみや怒りを抑圧した、治療すべき病的な心理と解釈されてしまうかもしれない。

 「亡くなった人は、そこにいる」という感覚をもっているのが、自助グループに集う遺族である[vii]。わかちあいのなかで、母を亡くして泣いている娘がいたら、そのそばで、やはり泣きながら、そして侘びながら娘の背中をなでている母がいるはずだと感じる。それが、遺族のわかちあいではないだろうか。亡き人がそこにいると思うから、おのずと交わす言葉も変わってくる。わかちあいのなかで、亡き人が無視されたり、忘れられたりすることは決してない。

 とすれば、わかちあいに十人の遺族が集まれば、それぞれが喪った人をあわせて、本当は二十人の集まりなのである。集まった人たちの半数は、すでに亡くなっているから、姿は見えないし、言葉も出すこともない。しかし、わかちあいには、遺族ではない人は誰ひとりいないから、生きている人と死んでいる人が同数いる特別な空間が生まれる。そこにおいて、私たちの日常生活にある生と死の境界は少しばかり性格が変わるのだろう。だから、死んだ娘に会いにいくために、微笑みを浮かべて、わかちあいに行く父がいる。家を出るときには一人でも、わかちあいでは二人になる。そして同じ遺族との出会いがある。

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[i]  「すすめかたの工夫2:最初に自己紹介をしてもらう」

[ii]  「遺族として生きる」

[iii]  「わかちあいのルール1:当事者だけで」

[iv]  「仲良しクラブ」については「わかちあいのルール7:「仲良しクラブ」にならない」。

[v]  茶話会については「わかちあい以外の活動1:茶話会・飲み会・食事会」。

[vi]  全国自死遺族連絡会(2022)

[vii]  亡き人はそにいる

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