二つの天国[i]

 

天国って、どんなところだと思いますか。仏さまがいらっしゃって、花があちこちに咲いていて、みんな笑顔で、若い男女が(天国では年をとらないので、みんな若い!)古代のインドか中国か、そんな感じのゆったりした服を着て、楽しげに歩いたり走ったりしている様子なのでしょうか。赤ん坊もそこらへんにいるようですが、それはこれから生まれる命なのですよね。これは、私がきっとどこかの絵本で見た風景だと思うのです。

 天国では亡くなった人にまた再会できると思いますか。日本で生まれ育った大半の人は、そう教えられたと思いますよ。「先に行って、待っているよ」と死んでいった人もいますし、「また、あとから行くからね」と亡くなった人に呼びかける人もいます。

 「日本人はね、天国では先に死んで行った人と会うことができるって信じているんですよ」と、ある外国人の人に言ったら、びっくりしたように笑うものだから、「どうして笑うの?」と聞いたんです。そうしたら「だって、死んだ人なんでしょ?」「そうですよ。」「ごめんなさい、みんな寝転んでいるところを想像してしまったんです。」「いや、ちゃんと立っていますよ。」「でも、身体は無いはずでしょ。立てるはずがない。身体は天国にはいかないのですよ。魂だけが天国に行くのです。身体は汚(けが)れたものだから、土に戻るだけ。」

 ははあ、なるほど。私には身体と魂を分けるという発想がなかった。きっと東洋的なんだろうな。

 「じゃあ、あなたの国では天国にいくと、どうなると考えているの?」「それは信じている宗派によって違う。死んだあとすぐに天国にいくか、それとも天国とこの世との中間のところにしばらくいるか。でも、いっしょなのは、天国では神さまといっしょになるということ。」「死んだ人とは会えないの?」「会うとか、会わないとか、そんなことは大事なことじゃありません。」「会えないのだったら、寂しいね。」「寂しいことはないですよ。神さまといっしょだから。それで満たされるわけです。」

 その外国の人はキリスト教徒だった。キリスト教は一神教。神はただ一つという宗教である。一神教はしばしば政治に利用されていた。巨大な帝国ができあがるとき、言語や文化が異なる人々をまとめる必要があった。そのときに一神教は、人々の心を一つにすることに使われた。そして天国は、その唯一の神と一つになる場所だと考えられた。そこでは家族の絆など生きているときに持っていた人とのつながりは、神と一つになるときに、かえって邪魔になるものと考えられることもあったという[ii]

 この夏は、ずっと自死遺族の自助グループの論文を書いていた。そこでわからなかったのが、自死遺族の自助グループが、グリーフケアを嫌っているのはなぜかということだった。たどりついたのが、グリーフケアには、家族との絆を切って神と一つになるという天国のイメージが背景にあると指摘するアメリカ人の論文だったii

 いやぁ、驚きでした。こんなところで天国の国際的な違いが問題になるなんて。そういえば、ハリウッド映画では、途中で大事な友達とかが死んでしまっても、最後は死んだ友達のことなど忘れて明るいハッピーエンドになっているシーンがありますよね。あの強烈な違和感。それも天国の違いから来ているのかもしれません。

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[i] 『サロンあべの』第303号(20119月発行)初出. 原題「天国の違い」を改変.            

[ii] Klass & Goss (1999). ここではキリスト教の「天国」が一つのイメージであるかのように書いたが、もちろんそんなことはない。「天国に関しては、キリスト教の基本的な教えというものはなく、数限りない推察ばかりがある」と、天国を研究した研究者は書いている(McDannellほか,  =1993, p. 5)。また私がここでキリスト教を外国の宗教だと書いているように読者が思ったなら、それも誤解であると言いたい。ここで私が言いたいのは、死者とのつながりをどう考えるかは、文化によるのだということ、しかし異国の地で考えられてきたグリーフケアを、そのまま日本において使おうとする人は、その事実を軽視しているのではないかということだ。

 

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