野蛮なグリーフ

 

グリーフは悲嘆と訳されていることを前章で述べた[i]。悲嘆という言葉は、私たちが日常使わないので、それは「悲しみ」のことだと言われている。とすると、グリーフは、「悲しみ」と解釈されることになる。グリーフケアが「悲しみのケア」だと紹介されているのだから、それは自然なことだろう。

翻訳語が、何か格調高い上等な内容を含んでいるように誤解されがちだという翻訳研究者の指摘も紹介しておいた[ii]。カタカナで「グリーフ」と書けば、音の響きから、優雅さや高い品質を強調する商品名によく使われる「グレイス」や「グレード」などを連想させるのかもしれない。

まして、日本の文化のなかでは「悲しみ」は特別な地位を占めている[iii]。哲学を深い「悲しみ」から生まれるとする日本の最高峰の哲学者の説も紹介した[iv]。つまり「悲しみ」を高貴なものとする日本の文化に加えて、翻訳語が美化される現象のために「グリーフ」という言葉は、原語griefがもつ言葉以上の輝きを与えられてしまっている。加えていえば、日本では宗教関係者が「グリーフ」という言葉を使っているので、そこに宗教的な意味さえ含まれてしまっているのだろう。

一つの言葉が、翻訳され、異文化に移植されることで、より豊かな意味をもつことは何ら問題ではない。問題は、翻訳語としての「グリーフ」に深い哲学的な意味があるように思いながら、そのような意味のないgriefに基づいて作られた「グリーフケア」の理論や技術が、日本の文化のただなかにいる遺族に適用されようとしていることなのである。たとえていえば、水や塩の新しい使い方が外国で開発されたとして、その水や塩の使い方を、神道のお清めのために応用しようとするのは全く意味が無い。水や塩は地球上のどこでも同じかもしれないが、それが人間に与える意味は、文化によって異なる。深い意味のないgriefに対して作られた理論や技術を、翻訳語として崇高な内容を含めるようになった「グリーフ」に当てはめることは不合理なのである。

そんなことを私が考えるようになったきっかけは「英語では、グリーフとは情動(エモーション)である」[v]という一節を読んだことだ。情動(エモーション)は、感情(フィーリング)とは違う。「エモーションemotion」の「モーションmotion」は、「動き」ということだ。翻訳語の「情動」は、だから「動」という漢字を含んでいる。「エモーションemotion」の「エe」は、「外へex-」から来ていて、つまり、外に出る動きが「エモーション」であり「情動」なのである[vi]。これは心理学事典に書かれている情動の定義とも一致する。つまり「情動は主観的な内的経験であるとともに,行動的・運動的反応として表出され,また内分泌腺や内臓反応の変化などの生理的活動を伴うもの」[vii]なのである。

ポイントは、表に出る動きが、情動なのである。悲しみといえば、日本では「内に秘めたる悲しみ」という言い方が多いのではないだろうか[viii]。しかし「内に秘めたるグリーフ」というのは、あり得ない。なぜなら「グリーフ」は情動であり、情動というのは、その定義からして必ず外に出ていくものだからである。

いや、心理学の定義など、私たちにはあまり重要ではない。重要なのは、この情動というものが、グリーフケアを生み出した西洋社会の文化においてどのように理解されてきたかということである。それについては、以下の引用文を読めば、多くの人は衝撃を受けるに違いない。

情動は、一種の野蛮な反射と見なされ、理性と対置されることも多い。脳の原始的な部位は、上司に向かって「おまえはバカだ」と言えと命令するが、理性的な部位は、そんなことをすれば間違いなくクビになることを知っている。だからあなたは自分を抑える。この種の情動と理性の内的相克は、西洋文明が生んだ偉大なる物語(ナラティブ)の一つだ。それは、あなたを人間として定義するのに役立つ。理性がなければ、あなたは情動に身をまかせた単なる野獣にすぎない。. . . アメリカの法制度は、「情動は動物の本性の一部であり、理性によって抑制されなければ、愚行や暴力を生む」という前提に基づいて構築されている。[ix]

 情動が、西洋文明のなかでは動物的で野蛮なものと見なされているということは、ごく当たり前のことだから、ことさら西洋文明のなかにいる人々は、それを書かないし、意識もしない。情動を野蛮なものと考えることは、数千年昔のローマ時代から続く伝統であり、17世紀の宮廷においてもそれを抑制することが求められた[x]。このような数千年にわたって根付いた伝統のなかで、グリーフという「情動」を処理しようとする「グリーフワーク」が生まれたことを忘れてはいけない。

 「グリーフ・イズ・ラブ」[xi](グリーフは愛)という和製(?)英語を、アメリカ生活が長い博学の先生に話したら、彼は(決して悪意なく)「ずいぶん安っぽい英語ですね」と笑っていた。どうして、そんなことをおっしゃるのかなと思っていたが、「スキーで転んでグリーフ」であり[xii]、グリーフが情動で野蛮なものと見なされているのなら[xiii]、それを愛と考えるのは無理があるかもしれない。同じことを表現するなら、やはり「悲しさは愛しさ」と日本語で伝えないといけないようだ。 

1950

目次に戻る

 



[i] 悲嘆とは、深い意味の無い翻訳語である

[ii] 悲嘆とは、深い意味の無い翻訳語である

[iii] これについては竹内(2007, 2009)が詳しい。

[iv] プロセス論が拒否される第一の理由:『前に進め』というから

[v] Rosenblatt, 2008, p. 213

[vi] 語源等についてはWeblio英和・和英辞典を参照した。https://ejje.weblio.jp/content/emotion

[vii] 松山, 1981, p. 377

[viii] カラオケで大声で唄っていても、心には悲しみがあるという遺族会の考え方は「プロセス論が拒否される第二の理由」で述べた。

[ix] Barrett, =2019, pp. 10-11. (  )内の文字は、原文ではルビ。

[x] (Corbin, 2020)

[xi]  (Oka, 2013)

[xii] 悲嘆とは、深い意味の無い翻訳語である

[xiii] 「野蛮」という考え方も、理性と対立する概念だとすれば、これもかなり西洋的な概念で私たちにはわかりにくい。宮崎駿が作った「もののけ姫」の歌詞の一節に「悲しみと怒りにひそむまことの心」という言葉があるが、情動を抑えるところに人間性をみる西洋の価値観とは異なるものを表現していると言えるだろう。

inserted by FC2 system