異文化としてのグリーフケア

 

本の目次を遺族の方に見ていただいたら、「へえ、グリーフケアって異文化なんだ」と言っていただいた。それが嬉しくて、このタイトルにした。

 正確にいえば「グリーフケアは異文化だ」と言っているわけではない。「異文化としてのグリーフケア」を語るというのが、ここでの趣旨である。つまりグリーフケアを「異文化」と考えることによって、いろいろなことが見えてくることを、ここでは言いたい。

 逆に言えば、グリーフケアが「異文化」ではない人たちもいる。たとえば、グリーフケアを実践している人たち、あるいは、グリーフケアを受けて非常に良かったと考えている遺族たちにとっては、グリーフケアは「異文化」ではないだろう。肌にしっくり合うというか、水を得た魚のようにグリーフケアに馴染む人たちもいることは、まぎれもない事実である。

 問題は、その人たちが、グリーフケアを誰それかまわず遺族に押しつけてくるときに生じる。「グリーフケアをちゃんと受けないと病気になりますよ」という脅しの文句がついてくることもあり、そうなると、遺族もまた、このグリーフケアを受けないと、しっかりと生きていけないのではないかという不安に駆られてしまう。

 ここでは、そういう遺族のかたに向けて書きたいと思う。グリーフケアを実践している人に対して異議を申し立てているわけではない。また、グリーフケアそのものを批判しようなどとは私は考えていない(そもそも、私はそのような分野を専門としていない)。ただ、上に述べたようにグリーフケアの「押し売り」は止めてもらいたいという遺族の声があり[i]、その遺族が、その「押し売り」を拒絶するための「理論武装」をお手伝いしたいのである。

 その拒絶のための論理は、簡単にいえば「グリーフケアは異文化である」ということだ。「異文化」とは便利な考え方だ。「あなたの考え方、価値観と、私の考え方、価値観は違う。違っているが、どちらが正しく、どちらが間違っているというわけではない。また、どちらが優れているかと争うつもりもない。しかし、あなたの考え方、価値観を私に押しつけないでください」というメッセージが含まれている。

 グリーフケアは2つの意味で異文化になりうる。ひとつは、グリーフケアとカタカナで書いていることからわかるように海外で生まれた概念だから「異文化」なのである。なぜカタカナなのかというと、日本語にぴったりとした訳語が無かった。日本語に訳語が無かったのは、日本の文化にそれに当たる概念が無かったからである。この論理は非常に単純明快だろう。

 しかし単純明快だけに、すぐに反論が思い付く。たとえば、カウンセリング。「カウンセリング」とカタカナで書かれているのは、日本語にぴったりとした訳語が無かったからであるが、しかし異文化とは言えないだろうという反論である。つまり「カウンセリング」は、臨床心理学が開発した新しい手法であり、以前には無かった概念である。「コンピュータ」がカタカナで書かれているのと同じで、科学技術の発展によってできた新しい言葉だから、カタカナで書いているにすぎない。「カウンセリング」も「コンピュータ」も言葉の出所は海外であるが、だからといって異文化ではない。異文化のように見えるのは、科学技術の伝わり方に時差があるからにすぎない。たとえば電気も届いていない農村にノートパソコンを持って行ったら、「コンピュータ」は異文化のものと思われるかもしれないが、それは一時的なもので、そこに電気が届き、多くの人がノートパソコンを使うようになれば、異文化のようには見えなくなるというものである。

 この反論そのものが、実は、グリーフケアが異文化になりうる2つめの意味に関連している。つまり科学技術で生み出された概念も、それはそれに携わる科学者や技術者の文化が作り出したものであり、その分野の科学者や技術者ではない者にとっては「異文化」なのである[ii]

 科学者がつくった概念が「異文化」だという主張は、「概念が海外から来たから異文化なのだ」という主張よりもわかりにくく複雑だ。遺族のかたにとっては、どうでもいい議論に聞こえるかもしれないが、もう少し続けてみよう。グリーフケアが「異文化」になりうるという、この2つめの意味は詳しくみていくと、さらに2つに分かれるのである。

 まず、私たちが普段生活しているときに使っている考え方、ものの見方は、科学者とは異なることがある。わかりやすい例が、日没だ。私たちは「ああ、もう日が沈んだ」という。この言葉には、どこにも間違ったことはない。しかし科学の目から見れば、太陽が沈んでいるのではなく、地球が自転しているのである。だから「日が沈む」などというのは、天動説をいまだに信じているどうしようもない愚か者だということになる。

 しかし私たちも天動説ではなく、地動説を信じているはずだ。400年以上前にガリレオ・ガリレイが言ったことをもはや疑っている人はいないだろう。なのになぜ「日が沈んだ」と言うのだろう。それは私たちの言語的な習慣にすぎないのだろうか。

 そうではない。私たちが「日が沈んだ」というとき、何も太陽の動きを観察しているわけではない。日が沈み、今日も一日が終わった。今日は、私は何をしただろうか。今夜はどうすごそうか。そういったことを考えている。私たちが「もう日が沈んだね」というときは、そういう意味あいのなかで言っている。もしも、そこで私に一人の科学者が「日がしずんでいるのではない、地球が自転しているのだ!」と指摘したら、「この人は何を言っているのだろうか」と呆れてしまうだろう。そして科学者を「何もわかっていない人」として相手にしないだろう。

 グリーフケアも同じなのである。グリーフケアの本を読むと「悲嘆反応」という言葉がよく出てくる。人間は、悲嘆に対して、このように反応するのだと長々と書いている。遺族にとっては、これは「日が沈む」と美しい夕焼けを見ながらつぶやく人に対して地球の自転速度や自転周期を数字をあげて論じ始める人と同じくらい「うっとおしい」のである。「何を言っているのだ」と言いたくなるだろう。愛する人が亡くなっているのである。反応がどうだとか、それがどれくらい続くだとか、どうでもいいではないか。夕焼けをみながら一日を振り返っている人にとっての地球の自転速度と同じくらい、どうでもいいことなのだと思う。

 だからといって地球の自転速度が間違っているとか、その速度について真偽を争うとか、そういうつもりでもない。違う世界に住んでいるのである。それを「異文化」と呼べば、双方なっとくできるのではないか。

 さて科学者がつくった概念が「異文化」だという主張のもうひとつの意味は、もっと複雑である。また議論も難しい。非常に強い反論もあるはずである。ここでそれを簡単にいうなら、グリーフケアが基盤としている心理学や精神医学は、文化によってかなり違ってくるのではないかということである。「死別体験」を科学の対象とするといっても、「死」とは何か、「死別」とは何かというのは、哲学的な問題、人生観に左右される問題であり、それを科学の対象にできるのかという問題である。

 実は、この難問にもちゃんと出口は用意されている。心理学や精神医学で扱うのは、もちろん「死」や「死別」そのものではなく、悲嘆反応という反応なのだという理屈である。反応であれば、科学の対象になりうる。しかし、これにもまた複雑な議論が続く。続く章で少しずつ述べていきたい。

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[i] このことについては「『グリーフケアは要らない』という声が自死遺族にはある」という論考ですでにまとめてある。・田中・明(2010).

[ii] このような考え方は、多くの人には突拍子もないように聞こえるかもしれないが、学問的にはごく常識的なことだ。たとえばGergen(=2004)には「何が科学的事実であるかは科学者コミュニティによって決定される」という節(pp. 79-82)がある。

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