それは差別ではないかもしれない

 

かなり昔のことになるが、カナダで開かれた国際会議に参加したときのことだ。休憩時間にはいり、参加者どうしが交流する場面になった。参加者は丸テーブルにコーヒーとスナックを両手に持って、それぞれどこでもいいから自由に座るよう促された。スナックをいろいろ選ぶうちに私が遅れて一つのテーブルに座ると、そこにいた数人の人たちがさっと一斉に席を立ってしまった。それを見てから、あとから私の隣に座ってきた白人の男性が「なんだ、ひどい人種差別だね」と独り言のように言った。そういえば、立ち去った人たちも全員白人だった。

 彼の言葉は半ば冗談だったのだろうが、私は少し驚いた。それを言われるまで私は、私が来てそのテーブルにいた人たちが一斉に立ち去ったのは、単なる偶然だと思って気にもしなかったからである。しかし、それを言われて、どこの国にもある人種差別の知識と結びつき、そんなこともあるかもしれないと思うようになった。私はもともと人見知りの強い人間であるが、この経験以降、集まりのなかでの肌の色を気にするようになった。

 ここで私が言いたいのは、安易に「『あなたは差別されている』と伝えることの危険性」である。「これは差別だ」と第三者から言われたら、実際には差別では無かったかもしれないのに、そこに差別を見てしまうことがある。

 ある遺族のかたと話していたら、自助グループへの行政職員の対応が冷淡で、自死遺族への差別だとおっしゃる。しかし私から見れば、それは行政職員のごく普通の対応かもしれないと思う[i]。市民の自発的なグループだというだけで行政が支援していたら、それこそ行政の業務がパンクしてしまう。よくわからない民間の団体を行政がすぐに支援するはずがない。それを伝えたら、少し安心されたように見えた。

 自死遺族の自助グループを始めたいという人が、行政職員などに支援を求めたとき、かえってきた冷淡な反応に、自死遺族への差別的な態度を読みとってしまったとしたら、すこし聞いていただきたい話がある。それは次のようなことだ。

 私は、それこそ40年以上、自助グループの大ファンなのだが、20代のころには行政職員や社会福祉協議会の職員たちに会うチャンスがあれば、自助グループの素晴らしさを語り、その支援を御願いしていた。しかし、その職員たちの反応は必ずしも良いものではなかった。はっきりと否定はしないものの、言葉を濁し、話題を他のほうに変えるという場面がしばしばあった。「理屈では、そうだろうが、現実は、そんなものではない」という感じだろうか。

 なぜ、そんなにも自助グループに冷たいのか。自助グループの良さを知らないのではないか。当事者の潜在的な力、魅力に触れたことがないのではないか。私が不思議に思い、いろいろ聞いてみると、彼らも当事者を知らないわけではなかった。その当時から「自助グループ」とは呼ばれなかったけれども、当事者団体はいくらでもあった(以下、当時の団体を現在の「自助グループ」と区別するために、あえて当事者団体と書いておこう)。そして行政職員や社会福祉協議会の職員は、その支援にあたることも昔からあったのである。

 だから、彼らの当事者団体への印象をひとことでいえば、「もう、うんざり」なのである。支援とは、まずは支援という関係があってこそ成り立つのであるが、(当時の職員たちから見た当事者団体は)悪い意味での「当事者主権[ii]」になっていて、当事者のことは当事者が決めるというのは良いとしても、対話が成り立たないのである。一方的に何かを要求してくる。こちらから異論を言っても「当事者ではないあなたに何がわかるのか」と怒る。それなら仕方が無いと、その要求通りにこちらが動いたら、結果として、その団体のリーダー層を含む一部の当事者だけが利益を得るだけになってしまったという。

 もう何十年も前の話だ。ある福祉会館では、当事者団体が主体になって会館を運営することが望ましいということで、一つ一つの部屋を団体に管理させた。ある意味、当事者団体への支援としては最高の形だと思う。しかし10年、20年たつと、うまくいかなくなる。そこでは極端な例かもしれないが、高齢の男性が(障害児親の会の)会長となって、相談室であるはずの部屋を自分の事務所のように使ってしまった。年にわずか数件しか相談が来ないのだが、ある日、生まれてきた子どもに重い障害があり、子育てをどうしたらいいかと悩む若い母親がくると、その会長は半世紀も前の自分の子育て経験を延々と話したそうだ。最新の医療も福祉制度もわからないので、ひたすら半世紀前の自分の苦労話を語り、「制度が全く整っていなかった時代でも自分たちはこんなにがんばった。いまは前よりずいぶん良くなったから、弱音を吐くな」という「精神論」だった。そこの福祉会館の職員は、この会長に改善を御願いしたが、職員が働く以前からすでに会長は会長として働いており、職員を見下していて聞く耳を持たない。それで当事者団体を研究している研究者という立場で、この会長に意見してくれという依頼であった。当時、私はまだ30代であり、とうてい会長が聞いてくれるはずもなかった。

 そんな話は、いくらでもあるのである。こんな話は論文には書けないし、良い事例でもないので、ネットに出ているわけでもないだろう。

 ところで「モラル信任効果」という社会心理学の概念がある。これは「社会的に意義のある活動をしている人が、その価値ゆえに少しくらい非倫理的な行動をしても世間は許すだろうと考える」[iii]心理的な傾向のことだ。その結果、「福祉活動に熱心だったり、社会貢献に注力している企業の役員だったり、社会の役に立つような活動で有名だったり . . .  そのような人が犯罪や、倫理的に良くないことをしてしまうのは珍しくない」iiiというのである。社会福祉に長年かかわっている私には、自分自身のことを含めて思いあたることがいくつもある。

 これは40年以上、さまざまな当事者団体にかかわっている私が聞いた話なので、特定の団体を意味しているわけではないことを前もって強調しておかなければいけないが、当事者団体や自助グループが、行政から受けた補助金・助成金を横領してしまったという事例は実は少なくない(多いとは言わない。自助グループを運営している人は、ごく普通の人々であり、他の団体の運営者と比べて、特に倫理性が高いというわけではないということである)。当事者団体のリーダーは、その活動のためにはプライベートな出費も避けられないから、「これだけ今まで自分から持ち出しのお金があったのだから、少しぐらいいいじゃないか」と、補助金に手を付けてしまう。また若い女性の当事者の相談にのると行って自宅に連れ込み、あるいは車に乗せていっしょに例会に行こうといって、そこでセクハラ行為を繰り返していた自助グループの男性リーダーもいる。ただ自助グループの外部の人にそういったスキャンダルが漏れることは滅多にない。特に当事者への偏見が強くなることを怖れて、強く隠しておくのが通常であるが、長く自助グループにつきあっていると、それはどうしても聞こえてくる。それが行政等の職員の自助グループへの「冷淡」、もっと正確にいえば、慎重な態度につながってくるのである。

 まとめていうと、自死遺族として、その自助グループの支援を行政機関やさまざまな団体に御願いすることがあると思うが、そのときに否定的な反応が戻ってきても、それをすぐに自死遺族への差別、偏見とは思わないでほしいということである。

 多くの自死遺族は、突然、自死遺族になるのだろうから、行政機関の反応も自死遺族への反応と考えがちだと思う。しかし、行政機関等、自助グループとのかかわりがある機関、団体は、それまで長いあいだ、さまざまな当事者団体、自助グループ、市民グループ、ボランティアグループとの関係をもってきたという歴史がある。その歴史や経験を踏まえての反応なのである。つまり遺族側からみれば、その関係は白紙の状態であるが、行政機関からみえば、その関係は、すでに何十年の歴史の蓄積に塗りつぶされている。それが黒い色か、淡い桜色か、どんな色なのかは、外部からはわからない。だから突然、黒く塗りつぶされるような対応をされても、それは自死遺族への対応ではなく、これまでの市民グループとの劣化した関係が遺物として残っているだけなのかもしれない。

 自死遺族への差別がない、ということを言いたいわけではない。差別のように見えることも、すべてが差別や偏見の結果だとは限らないということをお伝えしたかった。

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[i] 行政との関係:差別と思う前に

[ii] 当事者主権とは「当事者主権とは、私が私の主権者である、私以外のだれも――国家も、家抜も、専門家も――私がだれであるか、私のニーズが何であるかを代わって決めることを許さない、という立場の表明である」(中西・上野, 2003, p. 4)。

[iii] 情報文化研究所(2021), p. 198.

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