遺族と死別体験者との違い

 

遺族と死別体験者とは違うのではないかと書いた[i]。遺族は死別体験者には違いないが、死別体験者が遺族とは限らない。遺族には、死別体験者にはない要素がある。それが、亡くなった人との関係である。

 心理学や精神医学で研究の対象となっているのは、死別体験者だ。つまり、死別を体験した個人に焦点が当てられる。それは心理学や精神医学が、個人の心のなか、あるいは脳のなかで生じていることに関心をもつからである。遺族が、心理学者や精神科医師が言うことに違和感をもつとしたら、それはその言葉が、もっぱら死別体験者に向けてのものであるからではないだろうか。

 死別体験者のグル−プなら、死別体験者がそこにいるだけである。しかし、遺族のグループなら、少なくとも遺族の自助グループなら、遺族であり続けることを自覚的に選んだ人々が集まっているのであるから、そこに亡くなった人もいるということではないだろうか。つまり、亡き人とともに生きていこうとする者が集まるとき、そこに亡き人も(比喩的な意味であるが)現れるのではないかと思う。

 自死遺族の自助グループは、わかちあいは、自死遺族だけで行うと決めている。私自身は自死遺族ではないので想像でいうしかないのだが、その理由の一つは、自死遺族だけで行うわかちあいであれば、亡き人もそこにいることができるからではないか。

 自死遺族ではない人が、わかちあいの場に一人でもいれば、遺族は死別体験者になってしまい、遺族は亡くなった人との関係というより、自分自身の個人的な死別体験を語ることを求められる。いや、求められるというより、遺族以外の人がいる場では、自然にそうなるということなのだろう。個人の体験なのだから、そこに適用できる心理学や精神医学の理論は山ほどある。専門家たちが、その場に出席することによって何かができるはずだと信じるのは無理もない。

 しかし遺族は、単なる死別体験者ではなく、亡き人との関係において生きている人だととらえれば、全く違う光景が見えてくる。わかちあいの場にいる一人一人の遺族の傍らには、誰かしらの亡き人がいるのである。それが可能なのは、その場にいる全員が遺族であるからである。遺族の顔と死別体験者の顔の違いは非常に微妙なもので、おそらく、そこに遺族ではない人が現れたと思った瞬間、遺族の顔は死別体験者のそれへと変わってしまうのではないか。

 以前に、全国自死遺族連絡会で、アメリカの自死遺族自助グループの代表者を招待したことがある。私も、その方々といろいろ話したのだが、どこか日本の遺族とは違う。どこが違うのか、そのときはよくわからなかったのだが、いま考えると、それは亡き人との距離の違いではないかと思う。日本には「生きていて近くにいる死者」がいるという指摘がある。長くなるが引用してみよう。

古代の日本人は、「死者が近い」という感覚と、「生きている死者」という感覚をもっていた。これらは仏教の教えを信じる人びとにも受け継がれてきた感覚である。たとえば「極楽浄土」について考えてみるとよい。そこはこの世から想像もつかないほど遠く離れたところにある。しかし実際にそのような遠い世界に死者がいるというよりは、むしろ生きている者の身近にいて守ってくれるといった感覚をもっている人が多いのではないだろうか。. . . 仏壇を前にして人は話しかけて悩みごとの相談をしたり、日々あったことの報告を行ったりもする。そういうことは多くの日本人にとって特別なことではなかっただろう。. . .  仏壇には死者の好んだ食べ物や花を供える。線香も焚く。これは死者がそれを食べ、香によって慰められることを願って行われる。死者が「生きて」おり、近くにいるという感覚をもっているからである。. . . 死者が生者の近いところであたかも生きているという感覚は、死者が過去のものではなく、あるいはまったく別の存在になったのではなく、その人格が失われず、生者からは姿はみえないが、異なった形態で存在していることを示している。. . . 多くの日本人がこのような感覚を共有してきたのである。[ii]

 自死遺族の自助グループは、このように「生きていて近くにいる死者」とどのように再びつながっていけばいいのか、それを体験をわかちあいながら、それこそ亡き人とともに考えていくことを目指しているのではないだろうか。それが、死別体験者のグループとの違いだと思う。

1819

目次に戻る

 



[i]  遺族として生きる意味

[ii]  中野(2014), p. 162.

inserted by FC2 system