遺族という言葉は、遺族ではない人たちのためにある

 

遺族は、なぜ遺族の自助グループに参加するのか。その理由は、人によってさまざまだろうが、ひとつ共通にあるのが、遺族であることが、自分にとってとても大きなことであり、それを避けては生きていけないと感じていることがあるのだろう。

 大切な人を亡くした人を遺族と呼ぶなら、多くの人が遺族である。毎年、日本では100万人以上の人が亡くなっている。その人たちを大切に思っていた人たちは、それこそ数百万人に及ぶだろう。しかし、たいていの人たちは遺族の自助グループに参加しない。亡くなった当初は遺族になっても、遺族であり続けることは選ばないからである。「遺族であり続ける」人が、自助グループに加わるのである。

では「遺族であり続ける」とはどのようなことかというと、これは説明が難しい。なぜなら「遺族」とは、遺族ではない人が、そう呼んでいるだけの名前にすぎないからだ。大切な我が子が亡くなった、夫が、妻が、父が、母が亡くなったということはあっても、それで「遺族になった」と思う人は、おそらく誰もいない。私もそうだった。死んだ父を見て、自分が遺族になったとは思わなかった。だいたい「遺族」という言葉が頭にない。ところが、葬儀が始まると、葬儀屋から「ご遺族はこちらへ」と案内される。「あ、自分は遺族になったのだ」と、そこで初めて気付く。

父の葬儀のときには、遺族はどうしたらいいか葬儀屋に聞いた。なんといっても私は遺族になったばかりだ。遺族としてどうふるまうべきか何も知らない。その点、葬儀屋は、これが職業であり、毎日のように遺族に会っている。葬儀屋が言う席に座り、葬儀屋が言うタイミングで会葬者に挨拶をした。父は何が好きだったのかと葬儀屋に聞かれ、コーヒーだと答えると、じゃあ、コーヒーを祭壇に、と言われる。それで、妹がインスタント・コーヒーの瓶があったので、それを供えると「何をしているんですか、ちゃんとコップに入れないと」と叱りつけるように言われて、妹は苦笑していた。コップに入れても瓶のままでも、父はもう亡くなっているのだから同じようなものだと思ったが、そんなものかもしれないと妙に納得してしまった。

遺族は私たちなのである。だから葬儀の仕方も、私たちが決めればいいようなものだが、何をどうすればいいのかわからない。いろいろやり方なども決まっているようだということで葬儀屋に任せてしまう。葬儀屋も私たちの希望を聞いてはくれるのだが、私たちも何を希望していいのかわからない。いろいろ選択肢を示されても何がどうなのかがわからないので、「みんな、どうされているのですか」とか聞きながら、だいたいは葬儀屋の勧めたとおりに選んでいた。ただ、あまりに葬儀屋のペースで進んでいくのも、なんとなく後悔するような気がして、些細なところでいろいろ注文をつけてみたが、終わってみたら、やっぱり葬儀屋の言うとおりにしておけば良かったと思うところがあった。

これだけの私の体験から、自死遺族のかたの状況を想像するのは、ほとんど不可能だろうが、あえてそれを試みるのなら、遺族は、遺族に突然なるということだろう。事故死の場合もそうだが、自死の場合は、ほとんど遺族は、何の準備もないまま、いきなり遺族になることが多いのだと思う。

現実は、先にも述べたように、愛する子が、夫が、妻が、父が、母が亡くなったということである。自死で亡くなったという事実が衝撃をもって伝わるのであり、そこで「私は遺族になった」と冷静に考える人は、ほとんどいない。なぜなら「遺族になる」とは、外から見た人の言い方だからだ。葬儀のときに私が遺族と呼ばれたのは、会葬者と区別するためである。同様に、社会のなかで遺族が遺族と呼ばれるのは、遺族ではない人たちと区別するためだ。本当は、それ以上の意味はないはずだ。遺族を遺族と呼ぶ必要があるのは、遺族ではない人たちがいるからであって、遺族だけなら、その呼称も必要ない。「子を亡くした人」「母を亡くした人」という言い方で十分なのである。

言い換えれば、遺族という言葉は、遺族ではない人たちのためにある。遺族ではない人々が、遺族をどう扱えばいいかを考えるためにある。さらに言えば、葬儀で、遺族が葬儀屋に言われたように振る舞うように、社会では、遺族は、遺族ではない人々に言われるように生きていくよう期待されている。自死遺族であれば、まさにそれが偏見や差別につながっているのだろう。

何度も言うが、遺族は、突然、遺族になる。遺族になるための準備をしていた遺族は、ほとんどいない。だから遺族としてどうしていけばいいのか、まるでわからない。そのため遺族ではない人の指示や期待に沿って生きていこうとしてしまう。遺族ではない人はまるでわかっていなくて、彼らの言うことに耳を傾けてしまったために、後になってかえって苦しんできた自死遺族は本当に多いことだろう。

しかし、多勢に無勢なのだ。自死遺族はたいてい孤立していて、味方は少ない。それに対して周囲の人は、無数にいる。自死遺族は、遺族になったばかりで経験もなく知識もないが、遺族では無い人々は、自死に対してはどう考えたらいいか、自死遺族に対してはどういう態度をするかは、もう大昔から決めているものだ。だから自死遺族は、社会との闘いになっても圧倒的に不利なのである。

自助グループ結成は、自死遺族にとって、この圧倒的に不利な状況を変えていこうとする貴重な動きだ。これによって遺族は、突然、遺族になっても、他の遺族の経験から学び、賢くなれる。遺族ではない人々の言うままに流されることも少なくなる。孤立した遺族は、以前は周囲の遺族では無い人々の意見しか聞くことができなかったが、いまは同じ遺族の声を聞いて自分の生き方を考えることができる。

遺族という言葉は、遺族ではない人々によって作られ、使われてきた言葉だったが、自死遺族の自助グループは、この遺族という言葉そのものの意味を変えるだけの可能性を持っている[i]。次にそれを述べてみよう。

                                                                                                                                           2494

目次に戻る

 



[i] ここでいう遺族とは、遺族というカテゴリーなのである。Sacks(=1987)によれば、そのカテゴリーは「そのカテゴリーに属さない非メンバーによって用いられ、そのカテゴリーに属するメンバーには、非メンバーに対して自分たちを同定するとき以外は用いられない」(p. 25)。「ある集団にあてはめるカテゴリーを、当該集団以外の集団が所有し」ていて、「支配的なカテゴリーは、基本的に、人々が現実をどのように理解しているのかを規定している。そして、人々の現実の見方を変革しようとすれば、明らかにそれは一つの革命なのである」(p. 26)。自死遺族の自助グループが、(自死)遺族という言葉の意味を変えようとすれば、それは「革命」と呼んでもいい重要な仕事になるだろう。

inserted by FC2 system