成し遂げた行為としての自死

 

とても難しいテーマで慎重に書かなければいけない。書かないほうが無難かもしれないとも思う。遺族の集まりのなかでも私はそれを聞いたことがないので、遺族のなかでも言いにくいことなのかもしれない。しかし、少数ながら複数の遺族のかたから私が直接聞いたことなので、それを組み合わせる形で書いてみよう。

それは「成し遂げた行為としての自死」という考え方である。「とんでもない」という怒りの声がすぐにでも返ってきそうだ。しかしながら、繰り返し、繰り返し、自死を試みる愛する子がいて、試みるたびに身体をひどく傷つけ、肉体的苦痛に苦しみ、集中治療室で生死をさまよう姿を何度も家族は見ている。「生きていてほしい」と泣いて狂ったように叫びながら家族が必死に訴えても、「死なせてください」と静かに哀願するように言われてしまう。家族の愛はしっかり届いている。なのに、なぜ死を選ぼうとするのか。何とも表現できない、誰にぶつけていいのかわからない強い怒りと焦り、理解できないという深い絶望感、何もできないという無力感におそわれる家族がいる。

それがずっと続いたあと、突然、それが終わる日がくる。命を無くしたばかりの我が子の顔は、繰り返された試みからくる激しい痛みの表情もウソのように消えていて、まるで安らかに眠っているように穏やかだったという。

そこには生きていけないほど辛いこの世界から、ようやく旅立ち、ついに願いがかなったという故人の満足感があったのかもしれない。また親として、もう子どもが自分を傷つけ、痛みにもがき苦しむ姿を見ることはないという安堵感もあったのだろう。絶対に見たくなかった子どもの死に顔を初めて見たとき、涙ひとつ出なかったそうだ。そして肉体をひどく傷つける行為をしたにもかかわらず、顔には傷ひとつなく美しいままだったから「ああ、良かったね」という声も自然にあふれてきたという。

「あの子は、よく(自死を)できたと思う。私には、とてもそれだけの(自死する)勇気はありませんよ」と静かにおっしゃる。亡くなったあと、後を追うことも考えたのだろうか、まるで感心したようにおっしゃるのだが、それを聞いた私には「成し遂げた行為としての自死」という言葉が浮かぶ。

Complete suicide(自死を完遂する)という表現があることを私に教えてくれたのは、我が子を自死で無くした外国の方だった。Completeは、学業や大きな仕事を成し遂げたときに使う言葉だ。当然ながら、良いニュアンスがある。それを自死に使ってよいのかという議論はある[1]。しかしながら、繰り返す未遂のたびに本人も家族も地獄のような苦しみに喘(あえ)いだ。それを終える手段として本人が選んだのが自死だったのである。

自死遺族の自助グループに出会って14年がたったが、私には遺族の気持ちがわからない。いや「わからない」というより、体験のない私には「それが、わかる」などと考えてはいけないという気持ちがまず先にある。そして「わからない」ことを自覚することが、私には想像できないほどの苦しさに耐えてきた遺族への敬意につながっている。

同様に亡くなった人の気持ちは誰にもわからない。おそらくは、もっとも親しいはずだった家族にもわからないだろう。しかしながら、その「わからなさ」が、亡くなった人の意思を尊重することにつながるとすれば、すべてがそうだとは言わないが、「成し遂げた行為としての自死」も可能性としては残っている。それを否定することは誰にもできないだろう、なぜなら亡くなった人は私たちのすべての推察を越えたところにいるのだから。

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[1] Freedenthal (2017).

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