悲しみは心理学の対象ではない

 

「悲しさは愛しさだ」と前章で述べた[i]。しかし、これについては専門家、とくにグリーフワークの専門家から批判があるかもしれない。それは、きっと次のようなものだろう。

「悲嘆回復プロセス論は間違っている」[ii]と冒頭で述べていたので、いったい何を根拠にそう主張するのかと思っていたら、平安時代に書かれた古典文学を引用して「悲しさは愛しさなのだから」というので呆れてしまった。科学の学説を古典文学の引用で批判できるなら、月には「かぐや姫」がいることになる。心理学や精神医学が専門ではなく[iii]、社会福祉学が専門というのなら、せめて社会福祉学の観点から論じるべきだ。古典文学を論じるのは、社会福祉学の範疇ではないはずだ。

 この批判に応じるために私の立場を書いておきたい。それは、私の考察がどこから出発して、どこに向かおうとしているのかということだ。遺族のかたには退屈かもしれないので、そこは飛ばして読んでいただければいいと思う。

 まず私の出発点だが、それは社会福祉学だ。社会福祉学とは何をすることかといえば、いろいろな考え方があるものの、ひとつの古典的な理論は、岡村重夫によるものである[iv]。そこには社会福祉学の視点は以下のようなものだと記されている。

社会福祉は、社会関係の客体的側面にかかわる専門分業的な他の生活関連施策とは違って、生活主体者による生活困難克服の努力を援助することである。言いかえれば、すべての個人が、社会関係の主体的側面の論理を実現するように援助することである。従ってこの主体的側面の論理は、社会福祉問題把握の視点にとどまるものではなくて、社会福祉的援助の目的概念でもある。それは社会福祉の対象と機能を一元的に説明しうる論理であるという意味で、認識の原理が同時に援助の原理なのである。[v]

 やや抽象的な表現でわかりにくいが、遺族を例にとれば、遺族による生活困難克服の努力を援助することである。そのとき、遺族と社会との関係においては、遺族の側から考える論理を優先して援助していくということである。悲嘆回復プロセス論は、心理学ないし精神医学の理論であっても、それを使用して遺族を支援しようとする人々が社会にいる以上、その理論も社会を構成する一部であり、遺族が立ち向かわなければいけない論理になっている。そして、遺族の側から考える論理を優先するとは、「悲嘆回復プロセス論は間違っている」と遺族がいうなら、そこに立脚することが、社会福祉学の原理に照らしてみても正しいのである。

 「すべての遺族が『悲嘆回復プロセス論は間違っている』と言っているわけではないだろう、一部の遺族の考えで理論が正しいとか、正しくないとか論じるのは間違っている」というさらなる批判があるかもしれないが、心理学の理論が正しいか、正しくないは、社会福祉の立場からは(そして、多くの遺族にとっても)関心外のことだ。ただ、いかなる理論であっても、遺族の側から考える論理と相容れない部分があれば、それを否定していくのが社会福祉の立場である。また実際に生活をしている遺族を援助していくのが社会福祉なので、「すべての遺族」といった抽象的な思考の産物には、やはり関心を持たない。この地上には(同じ思考や同じ性格をもつ)「すべての遺族」などどこにも存在しないというのが、社会福祉を基盤とする私の立場なのである。

 次に、私の考察がどこに向かおうとしているかということだが、それは、遺族自身の働きかけによって社会が変わることを目指しているのである。遺族が社会を変えていく、そのための議論なのである。私の立場は、すべての概念は社会的に作られたものであり、だからこそ人の手によって、特に当事者である遺族によって変えていくことができるというものである[vi]

 遺族が社会を変えていくための議論を展開するには、その議論への遺族の参加が不可欠である。「悲嘆回復プロセス論を否定したい」という遺族に、その理論に否定的な心理学の論文のコピーを手渡したが、遺族は関心を持たなかったということはすでに書いたii。抽象的な概念モデルを作ったり、統計的な数字を並べたりしても、遺族とは対話できない。遺族と対話できない研究は、いくらやっても社会を変えていこうとする遺族の支援にはつながらない。

 新しい形の研究として、抽象的な概念モデルや統計を使うのではなく、詩や演劇を用いたものがあり、これは「芸術を基盤とした研究」[vii]と呼ばれている。私が「悲しみは愛しさ」を伝えるために古典文学者の説を引用したのも、それに近い。古典文学に流れる深く美しい思想をいわばメロディーのように用いて、そこに「悲しみは愛しさ」というメッセージを乗せて、遺族の耳にまで届くよう願っているのである。

 悲嘆回復プロセス論を否定して、代わりに「悲しみは愛しさ」論を打ち立てようとしているのではない。そうではなく、あたかも「唯一の真理」であるかのように重く遺族に押しつけられてくる「悲嘆回復プロセス論」に対して、「いや、それが唯一の考え方ではない。別の考え方もありうるだろう」[viii]と反論し、遺族が外からの圧力から解放されるための出口のひとつを示しているのである。  

 

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[i] 「悲しさは愛しさ」

[ii] 「悲嘆回復プロセス論は間違っている」

[iii] 「グリーフケアにありがちな間違い」で精神医学の論文を紹介する

[iv] 松本 (1993)

[v] 岡村(1983) 「序にかえて」(ページ数記載なし)

[vi] これは社会構成主義と呼ばれる立場である。Gergen(=2004)に詳しい説明がある。

[vii] Art based research. Gergen (2015), p. 86.

[viii] 従来の伝統的な研究は「これは何なのか(what is)」を明らかにすることであったが、アクションリサーチという新しい研究の形は「これは何になりうるのか(what could be)」という可能性に焦点をあてていく(Gergen, 2015, p. 83)。私の研究も遺族とともに社会を変えていくことを目指すものであるから、「悲しみは愛しさ」という考え方が、悲しみを「望ましくないもの」として除去しようとする専門家の考え方を受け入れない遺族の力になることを期待しているのである。

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