悲嘆は悲しみではない

 

前章では、長引く悲嘆を病的であるとする専門家と、悲しみとともに生きる遺族とで、考え方が大きく異なると述べた[i]。私は心理学者でも精神医学者でもないので、悲嘆について学術的に語る資格はない。したがってどちらが正しいかという論争があったとしても、それに加わるつもりもない。

 しかし、ある一つの論点に注目すれば、両者は和解可能だと思う。その論点とは「悲嘆は悲しみではない」ということだ。「悲嘆は難しい漢語で、それを易しく言えば、悲しみだ」と思っている部分が、専門家側にも遺族側にもあるように思える。そこが大きな間違いで、無用の混乱をもたらしているのだと思う。

 悲嘆について、この分野の研究の第一人者である平山は以下のように言う。

悲嘆(grief)は、喪失(死別)にともなう反応ないし症状をさす。具体的に言えば、悲嘆は、喪失体験にともなう悲しみの感情そのものをさしている。つまり、悲嘆の感情は、誰かを亡くしたときに、人間の心のなかにひきおこされる苦悩の一部であると解釈される。したがって、悲嘆は、悲しみという出来事の横断面的側面である「反応」や「症状」のみをさし、その心理的内面や経過(プロセス)にまで言及するようなことばではない。[ii]

悲嘆は「反応」であり「症状」であるとされていることに注意したい。「悲嘆は . . . 悲しみの感情そのもの」とあるが、その「心理的内面」を含まない。要するに、内容のない「反応」や「症状」にすぎない。

だが、その「反応」や「症状」とは何なのか。いまひとつ、よくわからないので、上にあげた平山の著書のなかに「心的外傷後死別反応」という章があり、そこを読んでみると、自死遺族の「反応」が以下のようにあげられている。すなわち「身体や思考や感情の麻痺」(p. 39)、「自死した時のこと、あるいは、その前後の記憶が失われる」(p. 40)、「自分が自分でないような感じがする。なにかふわふわ宙に浮いている感じがする」(p. 41)、「自律神経(とくに交感神経)の緊張症状 . . . すなわち、動悸がする、. . . また発汗したり、手足が冷たくなったり、息苦しいといった、過呼吸発作」(p. 41)、「強い恐怖感や不安感や、時間が止まったような感覚」(p. 42)、「入眠できない、途中で目が覚める、朝早く目が覚めてしまう、. . . なにかに脅える、びくびくする、イライラする」(p. 43)とある。

このように具体的にみると、悲嘆が「反応」や「症状」であることがよくわかる。そして、これは「悲しみ」などではないこともわかる。「悲しみ」とは、人間にとってもっと深みをもつものである[iii]。単に「動悸がする」といった身体的な症状や、「イライラする」という心理的な反応ではないのが、人間の悲しみである。

この人間にとって深みをもつ「悲しみ」と単なる身体的・心理的症状である悲嘆とが、混同されてしまっているところに大きな問題がある。たとえば、先に紹介したように平山も、悲嘆が単なる「反応」や「症状」であるとしながら、一方では、悲哀(mourning)は「喪失体験後の心理的過程をさす」とし、悲哀は「悲しみの経過、すなわち歴史性、時間性をもった縦断而的な側面を有している」と、悲嘆とは区別しながらも(p. 11)、その同じ書のなかで「悲嘆および悲哀(以下、本節では悲嘆ということばにまとめる)」(p. 33)として、悲嘆という言葉の拡大解釈につながる記述をしている。

「悲嘆を悲しみと理解して何が悪いのか」と思われるかもしれないが、悲嘆を悲しみと読み替えてしまうことで、グリーフ(悲嘆)ケアが「悲しみのケア」となり、単に症状を扱うだけのケアが、愛する者との死別という人生の根本問題に取り組むケアになってしまう。すなわち、グリーフケアの(悲嘆を悲しみと同じだとする)誤解に基づく過大な期待が社会のなかに生まれてしまう。この誤解は、一部の宗教関係者がグリーフケアに関心をもつことによって、さらに広がっている。つまり死に関連する(正確には死別に関連する)症状のケアにすぎないものが、「人間にとって死とは何か」という宗教的な大問題を扱う「心理学的あるいは精神医学的技術」として出現してしまったのである。

これが、どれほどとんでもないことなのかを実感するには、認知症ケアの技術が、宗教や人生の問題を扱うものと誤解されたとしたらどうかと想像してみるといい。認知症ケアは、認知症の症状をケアするものとしては非常に貴重なものだ。しかし、そのケアは認知症そのものを治すものではないし、まして「人間にとって老いとは何か」「過去を記憶することは人生にとってどのような意味があるか」といった哲学的あるいは宗教的な問いに答えるものではないし、また、そう誤解している人々が、よりよい認知症ケアができるわけでもない。

グリーフケアもまた同じなのである。悲嘆(グリーフ)と悲しみは違う[iv]。安易に「翻訳」してはいけない。症状や反応をケアする技術が、死別体験が人に問いかける哲学的、宗教的問題を解いてくれるわけがない。そんな当たり前のことを理解することで、グリーフケアの専門家と(主に自助グループに集う)自死遺族の和解は可能なのではないだろうか。

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[i] 「悲しみは病気ではない」

[ii] 平山正実(2009)『自死遺族を支える』エム・シー・ミューズ, pp. 10-11.

[iii] 悲しみをこのように深くとらえる観点は、グリーフワークの研究者には無いようだ。坂口(2010)は、我が国ではグリーフワークの代表的な研究者であるが、悲嘆について次のようにいう。すなわち「悲嘆には、悲しみや怒りなど特徴的な反応はいくつかある」(p. 4)。「『悲嘆』の日本語としての意味は、『かなしみなげくこと』. . . であり、”grief”の持つ症候群としての意味合いに比べ、かなり限定的である。したがって、『悲嘆』と訳すことで、”grief”の本来の意味が矮小化され、狭い意味で理解されることが懸念される」(p. 4)という。すなわち、グリーフは「悲しみ嘆くこと」、すなわち「悲嘆」と訳されることによって意味されることが少なくなってしまうというのである。そこでは悲しみは、反応の一つにすぎない。一方で、本書の立場は「悲しみは愛しさ」とし、人間の存在のもっとも深いものであり、哲学者にとってはその思索の動機にさえなるものとする(「プロセス論が拒否される第一の理由:「前に進め」というから」)。この悲しみのとらえかたの違いがあるからこそ、悲しみとともに生きていこうとする遺族は、グリーフケアを拒絶するのだろう。

[iv] 吉野(2017a, 2017b)は「ケア不要論」(p. 68)として岡・田中・明(2010)岡・Borkman(2011)を紹介しているが、私は症状としてのグリーフのケアが不要だと主張しているわけではない。悲しみを症状としてのみとらえる、つまり悲しみの深みを奪っている動きに反対しているわけである(こころのケアと医療化)。

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